人を選んではならないという信仰=反差別の誤り

人は皆、同質ではない。

理不尽な客は沢山いるし、街を歩けば乱暴な人にも出会う。ところが、人は皆同じであるという信仰がある。

自由に選ぶことができないという前提を作れば、人を選んではならないという社会の要求にこたえるために、自分が罪人になる覚悟をするか、理不尽を受け入れるか、言い訳を考えるかを選ばなければならなくなってしまう。

人を選んではならないという信仰は、沢山の現実の軋轢を生む。人々は必死に、自分がいかに正しいのかをまくしたてるようになる。あるいは開き直るようになる。自分が相手を断ったのは差別ではないのだと「社会」が理解できるような説明を用意しようとする。自分の内心ではなく、社会のことを考え始める。

多くの人が、そこに不満を感じ、恐怖を感じ、不信感を抱く。すると人々は、人は同じでなければならないと考え始める。同じになるために妥協を強いられるのは当然だ、自由を奪われるのは当然だ、と考え始める。

間違った信仰が、間違った結論を導いてしまう。

「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由

 

お客様は神様

取引は自由な合意に基づかなければならない。

モノを買うとは、作った人の時間を買うということ。金を払うとは自分の過去の時間を差し出すということ。相手の時間と自分の時間を合意できる割合で交換する。合意できないなら交換しない。

対等な取引は当事者同士の自由な合意によってなされる。そうでなければ奴隷だ。自由な合意を第三者が変えさせるとしたら、人の人生を強制的に奪う搾取である。

「お客様は神様」というのは客を選ばないという宣言だ。どんな人が来ても同じように扱う、客を選ばない、っていう話なのだ。人を選んではならないと信仰する社会があって、「お客様は神様です」と信仰して客を選ばない経営者がいて、「経営者は神様です」と信仰して雇用主を選ばない従業員がいる。全部同じ宗教だ。

「経営者は客を選んで追い出すべきである」と感じる従業員もいるだろうけど、そう感じるなら従業員も経営者を選んで別の雇用主を見つけるという道を考えてもよいだろう。相手を選ぶことができなっている理由があって、そこから逃れることができず、誰かが強制しているとしたら、そこにある搾取は取り除かれるべきだ。でも、誰も強制しておらず、選ぶことができるなら、自由の力を行使すればよい。

人を選ぶのは自由、それが対等であるということだよ。

 

 

 

 

 

 

 

怠惰の強制

「労働がどれだけの価値を生み出したか」ではなく「生きていくのにどれだけの費用がかかるか」によって給料が決まる。そんな社会を想像してみよう。

これを、怠惰を奨励する社会であると批判する人がいる。あるいはその批判に対して、怠惰を許さない社会よりマシであるとする人もいる。

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公的社会保障が健康ファシズムを作り出す理由

政府の社会保障と健康ファシズム 、禁煙ファシズムには直接の強い結びつきがある。

政府による生活への介入がどのように、なぜ起きるのかを理解するために、公的社会保障と健康ファシズムを取り上げてみよう。

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義務感と良心

良心や善意は自発的であるからこそ意味がある。強制によって生じることはない。他者に作られた義務感や使命感と自分の内側にある良心は区別しないといけない。

自由を奪おうとする者は、義務感や使命感をでっちあげて良心と同じものであると錯覚させようとする。でも本当は、それらはまったく異なるものだ。自由を奪う者が他者の良心や善意を破壊していることを無視して、自由を奪われた者にそれらが欠けていると非難する。自分は使命感をもって取り組んでいるのだからお前もそうしろ。これを守るのは義務だからお前も守れ。そんな強制が良心とか善意を導くはずがあるだろうか?

そんなことをしても苦しくなるだけである。自分の助けたいものを助けることができなくなって、人は楽になったりしない。他人に作られた義務感のために自分の本当の感情を圧し殺すことを強制されることは辛いことなのである。強制は、良心や善意が生じる機会を壊し、苦痛を憎悪を導くだけだろう。

自分で選ぶことのできない者には、良心なんてあっても意味がない。だから人は自由に選ぶ余地を失うと良心と呼べるものを持てなくなる。義務感とか使命感しか持てなくなる。あるいは、あきらめしか抱かなくなる。

経済的自由の喪失

人はパンのみにて生くるにあらず

自民党の党是

「改憲は、立党以来の党是」と自民党は言う。

実際、日米安保体制を正当化するか、日米相互防衛条約に移行するか、いずれにしろ憲法改正が必要だという態度は1955年から変わっていない。そして、 岸政権以降は前者が一貫している態度である。

自民党の改憲を根本から否定したければ、日米安保体制そのものを否定すればよいわけだ。だが、民進党はそんなことは絶対にしないし、野党共闘なんてカードをだした共産党も実質的にそれを放棄した。

今となっては、与党も野党も日米安保体制の枠組みの中に利権を持っている。それをなんだかんだと言い換えても、ごまかしから生まれるものはごまかしでしかない。建前と利権の膨張しかないというのが、実際に半世紀以上ずっと起きてきたことである。

それは実際に半世紀以上ずっと起きてきたのに、今回は酷いとか今回は最悪とか言い続けるのも変なのだ。なんで、今までの分は否定しないのか?要するに、そこにぶら下がっているから、否定できないのである。

なぜ、政府の与えるものにぶら下がろうとするのか?それをやめなければ、権力に従属するだけだ。

最低賃金規制と雇用保護の両立という矛盾

最低賃金を上げろと叫んでいる政治団体は、一方で中小企業を補助しろと言っている。これは、本質的に危険なことだ。

最低賃金を上げろ、雇用は保護しろというのは、絶対に両立できないものである。最低賃金を上げればその賃金で回せない事業者は雇用することができなくなる。無理に事業を維持するよりも、事業を畳むことを選択するだろう。

彼らは一方で、賃金を増やせないのは経営者の無能だと言いながら、中小企業を税金で補助しろと言っている。これは問題を複雑にする。

高い賃金で人を雇用できてそれで事業を回している事業者に負担させて、最低賃金を増やして回らなくなる事業者を税金で補助したら、彼らの言う無能な経営者を補助するためにまともな事業者に負担させることになる。

自分でまともな雇用主を選んだ人や、まともな経営をしている人が、まともでない経営者のために負担を強いられる。最低賃金規制と雇用保護の両立は、公平とは言えないのである。

自由と道徳

殺人の自由

飲食店内でのタバコ規制に反対するというと、殺人の自由をなんでお前は主張しないのだ?という乱暴な意見が投げかけられてきたりする。それによって、自由とは危険なもので規制されるべきだという詭弁である。

殺人の自由を提示することによって自由を否定することはまったく間違っている。他人を殺すというのは、他人の自由を完全に奪う行為である。自由を尊重するという立場からは決して許されるものではない。同様に、他人の私有地でタバコを規制するというのも、他人の財産の自由を奪うことである。

政府の規制

公の施設で喫煙を禁止するというならともかく、飲食店は所有者のある私有地であるから、規制は財産の自由と営業の自由を奪うことになる。禁止するか許可するかは、本来所有者が決められるべきことである。公有地で自由を制限することは区別しないと混乱が生じる。

現に政府が個人の自由を頻繁に奪っていることは、そもそも不当なことである。人は他者の自由を奪う権利を持たない。公の権力は、たかだか複数の人の総意に過ぎない。多数決で選ばれた代表者であっても、個人の自由を奪う権利を持たない。つまり、公の権力が自由を奪うことは、肯定されるべきものではない。

自由を与えればヘイトスピーチだろうが人前での喫煙だろうが、なんでもまかり通ると主張する人は、自由の力を理解できていない。それは、政府の強制力の中で暮らして、そうでない状態を想像しようとしないからである。

自由な社会はどのように機能するか

理想的に自由な社会では、どんなに失礼なことを言おうとも、それが他者の自由を奪うものでなければ肯定される。つまり、政府の規制がなく自由である。

だが、迷惑をまき散らしている人が生きていけるかどうかは当人の責任である。乱暴なふるまいをする人は、他者から嫌われ、協力関係を築くことが難しい。他者を尊重しないふるまいは不利益が大きくなる。

自由でない社会では、国が税を介して私たちの生活に介入する。どんなに嫌な人間でも、多数決が要求する限り強制的に助けさせるのである。迷惑をまき散らしている人をも助けることが強制されるから自由な社会とは異なり、乱暴者が乱暴でいることによって不利益が生じない。

人々の乱暴な振る舞いの多くは、政府の保護があるからこそなされるものなのである。

憎悪は自由を奪われることによって生じる

ヘイトスピーチや排外主義というものは、国の干渉が助け合いを強制することによって生じるているという一面もある。

自由な社会であれば、単に嫌な相手から距離をとれば済むのに、国の干渉を大きくすれば、国によって狭い共同体を強制されるから、距離をとる自由が失われる。どんな動物でも、不安なら離れて観察し、少しずつ近づく。そうでないと危険だから、怖いのだ。だが、無理やり狭い柵の中に入れれば、互いを牽制するようになる。嫌な人も付き合うことを強制されてしまうから憎悪や恐怖を引き起こしてしまうのである。

結局、国の規制を大きくして自由を制限することでヘイトスピーチをなくせという考え方は、基本的なところに欠陥のある無理な話だ。実際にヘイトスピーチ規制を導入すれば、国の干渉を大きくして自由を制限することはできるけれど、それによって憎悪がなくなるわけではない。それは、政府を肥大させる結果にしかならず、ヘイトスピーチは姿を変えた別の形の憎悪に変化するだけだろう。

自由な社会は穏やかである

自由な社会では、迷惑をまき散らしながら生きることは、そもそも選択されない。無理に乱暴な生き方を選択したら、他者と協力関係を築くことが困難になり、苦労することになるからだ。

制限された社会では迷惑をまき散らしながら生きても平気だ。場合によっては、そのほうが得になってしまう。だからいつも乱暴な話になるし、その反動も大きなものになる。

自由な合意の重ね合わせによって生じる自然な秩序の中にいる者は、他者をないがしろにすることができない。損するからだ。規制の積み重ねで作られた強制力の枠の中にいる者たちは、規制を出し抜いたり、抜け道をわざと作ることで得してしまう。それが、利権とか搾取というものである。

自由な社会は、規制だらけの自由の奪われた社会よりも、ずっと穏やかなのである。

自由な社会では、道徳を自然に身に着ける

善悪を感じ分ける能力が淘汰されずに生き残るのは、進化の中でも、文化の中でも、成長の中でも、その方が都合がよかったからだろう。

善悪というものは、そもそも損得と結びついていないはずがない。自由な社会であるならば、自然に生活する中で、互いに、その方が得だという事実を、教え続けることになるだろう。

ところが、自由な社会でないなら善悪と損得の関係は簡単にひっくり返ってしまう。乱暴なふるまいをした方が得になってしまうようになる。こうして、自由のない社会では、道徳を強制的に教えなければならない前提が生じてしまう。もちろん、そのような乱暴な社会では、不自然な道徳の強制によって得するのは道徳や倫理を蹴っ飛ばす乱暴な人である。

 

最低賃金制度という経済的徴兵制

飲食店が商品の最低価格を政府に1500円に決めてもらったら、ラーメン屋は幸せになれるだろうか?ラーメン屋にやってくる客は少なくなり、店は立ち行かなくなるかもしれない。ラーメン屋からステーキ屋に業態を変えれば済むかもしれない、だがそれには大変なコストが必要だ。捻じれた市場では高級料理店の競争率も上がってしまい、決して飲食業は楽にならない。分業のコストばかりが高くなり、消費者もまた晩御飯を自炊するしかなくなってしまうだろう。

最低賃金制度はこれとよく似た制度だ。最低賃金を1500円に増やせば、1500円以上で求人をだす会社に、多くの労働者が集まることになる。労働者は今までよりも採用されることが難しくなって、事業者の要求は高くなる。それで、労働者は幸せになるだろうか?選択の自由を失うことで、一層過酷な競争を強いられるだろう。

多くの低賃金労働者にとって、今より高い賃金水準で雇われる方法がないわけではない。危険な労働や、人のやりたがらない仕事はならば、見つけられることができる。ある人は選択するだろうし、別の人は、体力的にきつかったり、精神的につらかったりするから、選択しないだろう。嫌なら選択しないことができる、これが職業選択の自由である。

体を売りたければ体を売ればよい。だが、最低賃金制度はそれ以外の選択肢を奪う。体を売るしかないから体を売るという状況を政府が作るのが最低賃金制度の機能だ。もちろん、職業選択の自由を奪うことに他ならないから、憲法22条にも反している。

最低賃金の押し上げを要求することで得をするのは、大企業の労組の幹部や、それを背景とする政党であって、本当の弱者ではないことに注意しよう。最低賃金法は、すでに雇われている人の地位を一時的に高くするかもしれないが、多くの人にとっては、失業する低賃金労働者を踏みつけて得ることができる特権はそれほど魅力的なものではない。雇用主からみて「代わりがいくらでも見つけられる」状態が生まれるからだ。当然のように無理な要求をする事業者は増えるだろう。そしてそれを拒否しようとも、職を失えば再就労は難しいという状況が作られる。

つまり、最低賃金法は、ブラック企業を無くす法律ではなく、ブラック企業を作り出す法律なのである。

政府に雇用を規制させる最低賃金法は、政府に都合のよい経済的徴兵制ともなりうる。兵士や原発事故の後始末の作業より安く雇うことを政府が禁止すれば、低賃金労働者にそれを強制することさえできるからだ。

人手不足で倒産するアベノミクス

正しい税金の使い方

ある使途に税金を使うことが正しいと言える必要条件は、それぞれの納税者が徴税されない場合に手に入れるものより、税を介して強制的にそれに投じさせるほうが利益をもたらすことを証明できる場合である。

そのような証明が存在しないならば、それぞれの納税者から他の使途に使う自由を奪うことは正当化できない。もし、そのような証明が存在するならば、強制的に徴税せずとも人々は自発的にその事業に出資するだろう。ゆえに、正しい税金の使い方は、税金を使わないことである。

人々は、徴税されるべきでない。

 

税金という仕組みは、そもそも正当化できるものではないにも関わらず、納めることがさも当たり前だと信じられている。また納めさせることが正義であるとすら信じられている。だが、それは間違いだ。

あらゆる物事に政府が干渉してしまっている結果、税金がなければ回らないような社会が確かに目の前にある。だが、目の前にある社会というものも回ってはいない。せいぜい将来に負債を積みながら、目の前に喧噪を作り出しているに過ぎない。そこにあものは破綻に向かって突き進むだけで、決して回ってはいない。