民主主義の限界

民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人が、民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人を、民主主義によって止めることはできない。

人の自由を政治的に奪い合うことをを正当化した人は、人の自由を奪う政府を止めることはできない。政府が人の自由を奪おうとすることは、民主主義の当然の帰結だからである。

少しでも政府が自由を奪えば、奪われた自由は歪みを残す。

「税金を使った助け合い」といって公営社会保障の税負担を強制すれば、政府はやがて全ての人が等しく健康に配慮して生きることを義務付けなければならなくなる。政府は規制を正当化する機会を得て肥大する。そして自由は大きく失われていく。

「教育機会を与えるのだ」といって教育費用の税負担を強制すれば、政府はすべての人が等しく教育の成果を社会のために還元することを義務付けなければならなくなる。政府は教育への強い介入を正当化する機会を得て肥大する。国の金で教育を受けることが誘導され、国のために尽くさなければ罰を受ける制度が作られる。そうして人々の生き方は自由を失う。

「人の稼ぎを守るのだ」といって雇用の自由を制限すれば、人々は職業経験を積む前に雇用されるだけの点数を稼ぐ競争に押し込められる。生き方を選択する機会を失い、決められた教育の中に没入する。人々は狭い競争を強いられ、自由を奪われる。

雇用のコストはずっと上昇し、製品価格は値上がりする。「事業者を守るのだ」といって自由な貿易を制限することが正当化される。肥大した政府は、国外で買えるよりはるかに高い値段で買うことを人々に強制する。

政府通貨はひたすら発行され、人々の現金資産の価値は急速に失われる。人々が現物資産を持とうとすれば破綻するから、政府は人々の取引を制限し始める。あらゆる取引を監視し、課税対象にすることで政府通貨を持つことを強制する。

人々は知っている、この仕組みが成り立っていないことを。人々が国外に出ていけば膨張した税負担を逃れることができる。本当に人々が出ていけば破綻する。だから政府は人の出入りを監視し、人々の自由をよりしっかりと制限する。

肥大した政府を支えるために収入の半分を奪われ、子孫への借金を正当化したとき、人々の自由の大部分は政府のために失われている。その時人々は政府を支えるためのみに生きることを強制される。

デモクラシーが政府を肥大させる口実を与え続けるということは、多いに反省するべきだと思う。 政府に求めるとしたら自由の邪魔をしないことであって、保護や統制ではない。それをいくら人権とか平等とか安全とか安心とか言い換えたってダメなんだよ。

 

 

終戦直後に作られた国家事業としての巨大売春所,特殊慰安施設協会(RAA)

日本政府は、ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争が終結すると直ちに、特殊慰安施設協会と称する事業を国家主導で開始した。シカゴ・サン東京特派員が「世界最大の売春トラスト」と呼んだ巨大事業は、ポツダム宣言受諾直後から連合軍が上陸するまでのわずかな期間から急速に展開した。

全盛期には日本人女性7万人が売られた。この出来事は、終戦のどさくさで一部のヤクザがよからぬことを企てたという話ではない。国家の中枢にあった官民にわたる大規模な構造が、独占していた立場を利用して、国民から奪える限りのものを奪い、それを足掛かりに自らを温存し、戦後日本に強い影響を残すことになったという話なのである。

敗戦に至ってもなお国民を利用し、経済的背景と強力な連携を確保し続けた権力は時代を下って現代に至るまで国家の中心に居座り続け、しかも終戦のその瞬間にさえ暴力をふるっていた。

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果てしなく続く議会の不毛な議論

自分の時間、自分の金でやればよいことを、税金でやろうとするから無理になる。そもそも、他人の金でやるな、他人の自由を縛ってやるなという話なのだ。当然、分かるように説明しろ、果てしなく説明しろ、という話しが延々と続くことになる。本当に必要なら、必要だと感じる人が作ろうとするだろう。

そもそも、お前の金を奪って何かを買ってやると言われたら、断るのに理由はいらないはずだ。オリンピックにしろ、魚市場にしろ、教育にしろ、人助けにしろ、他人に負担を強制するなら、果てしなく、無限に、議論に応じるべきだ。それはつまり、そもそも税金でやるべきでないということだよ。

税金とはそういうものだから我慢しなさい、議会とはそういうものだから我慢しなさい、平等だから我慢しなさい、みんなで我慢しなさい、、、それは間違った前提に立っている。同意なしにセックスを強要してはいけないし、お前のカネで何かを買ってやるといって同意なしに他人の財産を奪ってはいけない。

たとえ、多数決によってそれが認められても、たとえ憲法がそれを許していても、人を殺してはいけないし、人の財産を奪ってはいけないし、人の自由を奪ってはいけない。

お客様は神様

取引は自由な合意に基づかなければならない。

モノを買うとは、作った人の時間を買うということ。金を払うとは自分の過去の時間を差し出すということ。相手の時間と自分の時間を合意できる割合で交換する。合意できないなら交換しない。

対等な取引は当事者同士の自由な合意によってなされる。そうでなければ奴隷だ。自由な合意を第三者が変えさせるとしたら、人の人生を強制的に奪う搾取である。

「お客様は神様」というのは客を選ばないという宣言だ。どんな人が来ても同じように扱う、客を選ばない、っていう話なのだ。人を選んではならないと信仰する社会があって、「お客様は神様です」と信仰して客を選ばない経営者がいて、「経営者は神様です」と信仰して雇用主を選ばない従業員がいる。全部同じ宗教だ。

「経営者は客を選んで追い出すべきである」と感じる従業員もいるだろうけど、そう感じるなら従業員も経営者を選んで別の雇用主を見つけるという道を考えてもよいだろう。相手を選ぶことができなっている理由があって、そこから逃れることができず、誰かが強制しているとしたら、そこにある搾取は取り除かれるべきだ。でも、誰も強制しておらず、選ぶことができるなら、自由の力を行使すればよい。

人を選ぶのは自由、それが対等であるということだよ。

 

 

 

 

 

 

 

怠惰の強制

「労働がどれだけの価値を生み出したか」ではなく「生きていくのにどれだけの費用がかかるか」によって給料が決まる。そんな社会を想像してみよう。

これを、怠惰を奨励する社会であると批判する人がいる。あるいはその批判に対して、怠惰を許さない社会よりマシであるとする人もいる。

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年金と民主主義

老人の世代は、日本を発展させたのだから、その老後は若者が負担するべきだろうか?

親が子に家を残してやったとしても、それを上回るローンを残したなら、ツケを負わされるのは次世代である。債務を次世代に負わせて何かをしたことをもって、発展させたと評価することはできない。将来世代から先取りして消費してしまったり、あるいは運転効率の悪い資産に変えてしまったのである。そんなことを許せば、 当然あとの世代ほど苦しくなる。

無限連鎖講は最初の人も途中の人もみんな悪人とみなさなければならない。負債を積み上げた年寄りはもちろん責められるべきだが、負債を積み上げることを求める今の人達だって同じように責められることになるだろう。

年金は清算するのが公正というものだ。老人が生活できないから政府が若者から奪えなんていうのは乱暴である。そんな態度を押し通すなら、若い人に自発的な善意を期待するのは、無理というものだ。

「多数決で勝ったら奪ってよいのである、お前らが投票で負けるのが悪いのである」というなら、他人の善意や良心なんてまったく期待するべきではない。国の最低限のサービスだけで満足するべきだ。いかに、その「国」がろくでもなかったとしても、他人の良心に期待することは許されなくなる。政治による強制を正しいとみなすということは、結局そういうことだ。

国による強制と、善意や良心は、両方求めることができるものではない。奪い合いたいなら、助け合うことはできなくなるし、助け合いたいなら奪ってはならない。

いくら合法だといっても、投票して勝ったら奪えるなんてのは暴力に過ぎない。合法だから頼るというなら、言い張ればよい。いくらでも不平不満を政府にぶつければよい。紙切れを箱に入れるだけで、政府は喜んであなたの意見を汲みとって、もっと若者から財産を奪い取ってくれるかもしれない。それが民主主義というものだ。

だが、自発的な善意や良心がそんな乱暴な人に向けられるとは思うなよ、という話である。合法であれ、違法であれ、奪う者を助けようとする者は居なくなっていく。

義務感と良心

他者に作られた義務感や使命感と自分の内側にある良心は区別しないといけない。

人は、自由に選ぶ余地を失うと、良心と呼べるものを持たなくなる。義務感とか使命感しか持てなくなる。最後には、諦めしか抱かなくなる。選べないのに良心なんてあっても、意味がないからだ。自分は使命感をもって取り組んでいるのだからお前もそうしろ。これを守るのは義務だからお前も守れ。それ、良心とか善意とは無縁の関係だ。

良心を持てなくなることは、楽なことではない、苦しいことだ。自分の助けたいものを助けることができなくなって、人は楽になったりしないのである。他人に作られた義務感のために自分の本当の感情を圧し殺すことを強制されることは辛いことだ。良心を持てなくなることで手に入れるのは、苦痛と憎悪である。

良心や善意は自由から生まれるものだ、自発的であるからこそ意味がある。良心や善意が強制によって生まれることはない。自由を奪う者は、義務感や使命感をでっちあげて良心と同じものであると錯覚させようとする。でも本当は、それらはまったく異なるものなのである。

自民党の党是

「改憲は、立党以来の党是」と自民党は言う。

実際、日米安保体制を正当化するか、日米相互防衛条約に移行するか、いずれにしろ憲法改正が必要だという態度は1955年から変わっていない。そして、 岸政権以降は前者が一貫している態度である。

自民党の改憲を根本から否定したければ、日米安保体制そのものを否定すればよいわけだ。だが、民進党はそんなことは絶対にしないし、野党共闘なんてカードをだした共産党も実質的にそれを放棄した。

今となっては、与党も野党も日米安保体制の枠組みの中に利権を持っている。それをなんだかんだと言い換えても、ごまかしから生まれるものはごまかしでしかない。建前と利権の膨張しかないというのが、実際に半世紀以上ずっと起きてきたことである。

それは実際に半世紀以上ずっと起きてきたのに、今回は酷いとか今回は最悪とか言い続けるのも変なのだ。なんで、今までの分は否定しないのか?要するに、そこにぶら下がっているから、否定できないのである。

なぜ、政府の与えるものにぶら下がろうとするのか?それをやめなければ、権力に従属するだけだ。

自由と道徳

殺人の自由

飲食店内でのタバコ規制に反対するというと、殺人の自由をなんでお前は主張しないのだ?という乱暴な意見が投げかけられてきたりする。それによって、自由とは危険なもので規制されるべきだという詭弁である。

殺人の自由を提示することによって自由を否定することはまったく間違っている。他人を殺すというのは、他人の自由を完全に奪う行為である。自由を尊重するという立場からは決して許されるものではない。同様に、他人の私有地でタバコを規制するというのも、他人の財産の自由を奪うことである。

政府の規制

公の施設で喫煙を禁止するというならともかく、飲食店は所有者のある私有地であるから、規制は財産の自由と営業の自由を奪うことになる。禁止するか許可するかは、本来所有者が決められるべきことである。公有地で自由を制限することは区別しないと混乱が生じる。

現に政府が個人の自由を頻繁に奪っていることは、そもそも不当なことである。人は他者の自由を奪う権利を持たない。公の権力は、たかだか複数の人の総意に過ぎない。多数決で選ばれた代表者であっても、個人の自由を奪う権利を持たない。つまり、公の権力が自由を奪うことは、肯定されるべきものではない。

自由を与えればヘイトスピーチだろうが人前での喫煙だろうが、なんでもまかり通ると主張する人は、自由の力を理解できていない。それは、政府の強制力の中で暮らして、そうでない状態を想像しようとしないからである。

自由な社会はどのように機能するか

理想的に自由な社会では、どんなに失礼なことを言おうとも、それが他者の自由を奪うものでなければ肯定される。つまり、政府の規制がなく自由である。

だが、迷惑をまき散らしている人が生きていけるかどうかは当人の責任である。乱暴なふるまいをする人は、他者から嫌われ、協力関係を築くことが難しい。他者を尊重しないふるまいは不利益が大きくなる。

自由でない社会では、国が税を介して私たちの生活に介入する。どんなに嫌な人間でも、多数決が要求する限り強制的に助けさせるのである。迷惑をまき散らしている人をも助けることが強制されるから自由な社会とは異なり、乱暴者が乱暴でいることによって不利益が生じない。

人々の乱暴な振る舞いの多くは、政府の保護があるからこそなされるものなのである。

憎悪は自由を奪われることによって生じる

ヘイトスピーチや排外主義というものは、国の干渉が助け合いを強制することによって生じるているという一面もある。

自由な社会であれば、単に嫌な相手から距離をとれば済むのに、国の干渉を大きくすれば、国によって狭い共同体を強制されるから、距離をとる自由が失われる。どんな動物でも、不安なら離れて観察し、少しずつ近づく。そうでないと危険だから、怖いのだ。だが、無理やり狭い柵の中に入れれば、互いを牽制するようになる。嫌な人も付き合うことを強制されてしまうから憎悪や恐怖を引き起こしてしまうのである。

結局、国の規制を大きくして自由を制限することでヘイトスピーチをなくせという考え方は、基本的なところに欠陥のある無理な話だ。実際にヘイトスピーチ規制を導入すれば、国の干渉を大きくして自由を制限することはできるけれど、それによって憎悪がなくなるわけではない。それは、政府を肥大させる結果にしかならず、ヘイトスピーチは姿を変えた別の形の憎悪に変化するだけだろう。

自由な社会は穏やかである

自由な社会では、迷惑をまき散らしながら生きることは、そもそも選択されない。無理に乱暴な生き方を選択したら、他者と協力関係を築くことが困難になり、苦労することになるからだ。

制限された社会では迷惑をまき散らしながら生きても平気だ。場合によっては、そのほうが得になってしまう。だからいつも乱暴な話になるし、その反動も大きなものになる。

自由な合意の重ね合わせによって生じる自然な秩序の中にいる者は、他者をないがしろにすることができない。損するからだ。規制の積み重ねで作られた強制力の枠の中にいる者たちは、規制を出し抜いたり、抜け道をわざと作ることで得してしまう。それが、利権とか搾取というものである。

自由な社会は、規制だらけの自由の奪われた社会よりも、ずっと穏やかなのである。

自由な社会では、道徳を自然に身に着ける

善悪を感じ分ける能力が淘汰されずに生き残るのは、進化の中でも、文化の中でも、成長の中でも、その方が都合がよかったからだろう。

善悪というものは、そもそも損得と結びついていないはずがない。自由な社会であるならば、自然に生活する中で、互いに、その方が得だという事実を、教え続けることになるだろう。

ところが、自由な社会でないなら善悪と損得の関係は簡単にひっくり返ってしまう。乱暴なふるまいをした方が得になってしまうようになる。こうして、自由のない社会では、道徳を強制的に教えなければならない前提が生じてしまう。もちろん、そのような乱暴な社会では、不自然な道徳の強制によって得するのは道徳や倫理を蹴っ飛ばす乱暴な人である。