果てしなく続く議会の不毛な議論

自分の時間、自分の金でやればよいことを、税金でやろうとするから無理になる。そもそも、他人の金でやるな、他人の自由を縛ってやるなという話なのだ。当然、分かるように説明しろ、果てしなく説明しろ、という話しが延々と続くことになる。本当に必要なら、必要だと感じる人が作ろうとするだろう。

そもそも、お前の金を奪って何かを買ってやると言われたら、断るのに理由はいらないはずだ。オリンピックにしろ、魚市場にしろ、教育にしろ、人助けにしろ、他人に負担を強制するなら、果てしなく、無限に、議論に応じるべきだ。それはつまり、そもそも税金でやるべきでないということだよ。

税金とはそういうものだから我慢しなさい、議会とはそういうものだから我慢しなさい、平等だから我慢しなさい、みんなで我慢しなさい、、、それは間違った前提に立っている。同意なしにセックスを強要してはいけないし、お前のカネで何かを買ってやるといって同意なしに他人の財産を奪ってはいけない。

たとえ、多数決によってそれが認められても、たとえ憲法がそれを許していても、人を殺してはいけないし、人の財産を奪ってはいけないし、人の自由を奪ってはいけない。

ガラパゴス化と家畜化

実際、役所から仕事をもらうのも、決して楽ちんではない。

役所から仕事をもらうための熾烈な競争があるわけだ。ただし、その競争は消費者に対する競争ではない。だから、役所の方針が変わったら、いらないものになってしまう。予算の打ち切りとともに破綻する事業者は後を絶たない。この、役所に適合するための競争、それによって起こる歪んだ進化は、ガラパゴス化と揶揄されたものに他ならない。役所から良い条件で仕事をもらっている事業者、いわゆる利権は腐敗する。

生物史でとりあげられるガラパゴス諸島で起きた特異な進化は、閉鎖環境における自然淘汰の結果だ。だが、役所に適合するための進化は金魚やペットの犬猫の選別淘汰のような不自然なものである。だから、家畜化といったほうが正しい。家畜化した事業者は市場で自力で生き残ることができなくい水準まで生産性が低下する。限られた資源を、役所の条件に合わせるために食いつぶしてしまうからだ。役所から仕事をもらうための熾烈な競争は、市場での評価ではなく、予算獲得の建前や、それを押し通す助けになる縁故を作り出した者が勝ち残る。

疲弊した家畜は、より良い製品やサービスを作ることによってではなく、許されるギリギリまで建前を肥大させることによって生き残ろうとする。生き残るための競争が不正を作り出すのは、その競争が消費者を獲得するための競争ではなく、役人に認められるための競争だからである。今の日本は、納税者のカネを手に入れるための紙切れを書く競争だらけだ。大企業も中小企業も、保育園も大学も、みんな一緒である。役人に選ばれる競争ではなく、市場に選ばれる自由競争でなければ、意味がない。

腐敗した社会全体が無意味な競争に縛られ、ただすり減っていく。それは、ガラパゴスだからではなく、家畜だからである。

差別する自由

差別というのは、自由でない状態で生じるものだ。自由な状態で感じるとしたら、それは自然な恐怖とか不安というものだね。それは、本来なら少しずつ距離感を試すことで消えていくものだ。

未知のものに対する不安の程度も種類も、人によって違う。遠くで見ている人もいれば、最初から近づく人もいる。どちらが得になるかは試してみないと分からない。うまくいったらもっと近づく、怖いなら遠くから見ている。

これは、生物としてまったく必要な能力だ。もし、全ての魚が陸に上がろうとして失敗したら、そこで終わってしまう。すべての魚が海の中で満足していたら、そこで生物の進化は終わっている。自由に試せることは、生物の進化に不可欠だ。

「差別はよくない」なぜならば、得しないからだ。けれども、自由を奪うことはもっとよくない。政府の規制によって差別が解消されるわけではなく、自由な人々の試みによってこそ差別は無くなるのである。

何が怖いのか、何が不安なのかを、社会が決めてやるとか、政府が決めてやるっていうのはとても乱暴だ。一人ひとりの心の中にあるものを他人が決めることはできない。強制的に内心を封じようとしても、長期間歪んだまま、むしろ膨張する。未知のものに対して不安を感じるのは、動物として自然なことだからだ。

無理を押し通せば、内心に不安は残り、潜在的な危険に無頓着になり、政治的な利権も生じる。それこそが、差別が放置される原因そのものである。

不合理な差別は、自由な市場に置かれていれば本来なら放置されるはずの無いものだ。それが不合理であればあるほど、速やかに緩和されるはずだ。

自由な市場は、差別を駆逐する。

人を選んではならないという社会

人は皆、同質ではない。だから、人を選んではならないという信仰は、沢山の現実の軋轢を生む。理不尽な客は沢山いるし、街を歩けば乱暴な人にも出会う。だが、人を選んではならないという社会の要求にこたえるために、自分が罪人になる覚悟をするか、理不尽を受け入れるか、言い訳を考えるかを選ばなければならない。

人々は必死に、自分がいかに正しいのかをまくしたてるようになる。あるいは開き直るようになる。自分が相手を断ったのは差別ではないのだと「社会」が理解できるような説明を用意しようとする。自分の内心ではなく、社会のことを考え始める。

自由に選ぶことができないという前提を作れば、そういうことになる。多くの人が、そこに不満を感じ、恐怖を感じ、不信感を抱く。すると人々は、人は同じでなければならないと考え始める。同じになるために妥協を強いられるのは当然だと考え始める。

間違った信仰が、間違った結論を導いてしまう。

お客様は神様

取引は自由な合意に基づかなければならない。

モノを買うとは、作った人の時間を買うということ。金を払うとは自分の過去の時間を差し出すということ。相手の時間と自分の時間を合意できる割合で交換する。合意できないなら交換しない。

対等な取引は当事者同士の自由な合意によってなされる。そうでなければ奴隷だ。自由な合意を第三者が変えさせるとしたら、人の人生を強制的に奪う搾取である。

「お客様は神様」というのは客を選ばないという宣言だ。どんな人が来ても同じように扱う、客を選ばない、っていう話なのだ。人を選んではならないと信仰する社会があって、「お客様は神様です」と信仰して客を選ばない経営者がいて、「経営者は神様です」と信仰して雇用主を選ばない従業員がいる。全部同じ宗教だ。

「経営者は客を選んで追い出すべきである」と感じる従業員もいるだろうけど、そう感じるなら従業員も経営者を選んで別の雇用主を見つけるという道を考えてもよいだろう。相手を選ぶことができなっている理由があって、そこから逃れることができず、誰かが強制しているとしたら、そこにある搾取は取り除かれるべきだ。でも、誰も強制しておらず、選ぶことができるなら、自由の力を行使すればよい。

人を選ぶのは自由、それが対等であるということだよ。

 

 

 

 

 

 

 

怠惰の強制

「労働がどれだけの価値を生み出したか」ではなく「生きていくのにどれだけの費用がかかるか」によって給料が決まる。そんな社会を想像してみよう。

これを、怠惰を奨励する社会であると批判する人がいる。あるいはその批判に対して、怠惰を許さない社会よりマシであるとする人もいる。

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公的社会保障と健康ファシズム

政府の社会保障と健康ファシズム(health fascism) 、禁煙ファシズムには直接の強い結びつきがある。

政府による生活への介入がどのように、なぜ起きるのかを理解するために、公的社会保障と健康ファシズムを取り上げてみよう。

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義務感と良心

他者に作られた義務感や使命感と自分の内側にある良心は区別しないといけない。

人は、自由に選ぶ余地を失うと、良心と呼べるものを持たなくなる。義務感とか使命感しか持てなくなる。最後には、諦めしか抱かなくなる。選べないのに良心なんてあっても、意味がないからだ。自分は使命感をもって取り組んでいるのだからお前もそうしろ。これを守るのは義務だからお前も守れ。それ、良心とか善意とは無縁の関係だ。

良心を持てなくなることは、楽なことではない、苦しいことだ。自分の助けたいものを助けることができなくなって、人は楽になったりしないのである。他人に作られた義務感のために自分の本当の感情を圧し殺すことを強制されることは辛いことだ。良心を持てなくなることで手に入れるのは、苦痛と憎悪である。

良心や善意は自由から生まれるものだ、自発的であるからこそ意味がある。良心や善意が強制によって生まれることはない。自由を奪う者は、義務感や使命感をでっちあげて良心と同じものであると錯覚させようとする。でも本当は、それらはまったく異なるものなのである。

年金と民主主義

老人の世代は、日本を発展させたのだから、その老後は若者が負担するべきだろうか?

親が子に家を残してやったとしても、それを上回るローンを残したなら、ツケを負わされるのは次世代である。債務を次世代に負わせて何かをしたことをもって、発展させたと評価することはできない。将来世代から先取りして消費してしまったり、あるいは運転効率の悪い資産に変えてしまったのである。そんなことを許せば、 当然あとの世代ほど苦しくなる。

無限連鎖講は最初の人も途中の人もみんな悪人とみなさなければならない。負債を積み上げた年寄りはもちろん責められるべきだが、負債を積み上げることを求める今の人達だって同じように責められることになるだろう。

年金は清算するのが公正というものだ。老人が生活できないから政府が若者から奪えなんていうのは乱暴である。そんな態度を押し通すなら、若い人に自発的な善意を期待するのは、無理というものだ。

「多数決で勝ったら奪ってよいのである、お前らが投票で負けるのが悪いのである」というなら、他人の善意や良心なんてまったく期待するべきではない。国の最低限のサービスだけで満足するべきだ。いかに、その「国」がろくでもなかったとしても、他人の良心に期待することは許されなくなる。政治による強制を正しいとみなすということは、結局そういうことだ。

国による強制と、善意や良心は、両方求めることができるものではない。奪い合いたいなら、助け合うことはできなくなるし、助け合いたいなら奪ってはならない。

いくら合法だといっても、投票して勝ったら奪えるなんてのは暴力に過ぎない。合法だから頼るというなら、言い張ればよい。いくらでも不平不満を政府にぶつければよい。紙切れを箱に入れるだけで、政府は喜んであなたの意見を汲みとって、もっと若者から財産を奪い取ってくれるかもしれない。それが民主主義というものだ。

だが、自発的な善意や良心がそんな乱暴な人に向けられるとは思うなよ、という話である。合法であれ、違法であれ、奪う者を助けようとする者は居なくなっていく。

自民党の党是

「改憲は、立党以来の党是」と自民党は言う。

実際、日米安保体制を正当化するか、日米相互防衛条約に移行するか、いずれにしろ憲法改正が必要だという態度は1955年から変わっていない。そして、 岸政権以降は前者が一貫している態度である。

自民党の改憲を根本から否定したければ、日米安保体制そのものを否定すればよいわけだ。だが、民進党はそんなことは絶対にしないし、野党共闘なんてカードをだした共産党も実質的にそれを放棄した。

今となっては、与党も野党も日米安保体制の枠組みの中に利権を持っている。それをなんだかんだと言い換えても、ごまかしから生まれるものはごまかしでしかない。建前と利権の膨張しかないというのが、実際に半世紀以上ずっと起きてきたことである。

それは実際に半世紀以上ずっと起きてきたのに、今回は酷いとか今回は最悪とか言い続けるのも変なのだ。なんで、今までの分は否定しないのか?要するに、そこにぶら下がっているから、否定できないのである。

なぜ、政府の与えるものにぶら下がろうとするのか?それをやめなければ、権力に従属するだけだ。