「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

「愛されやすい人柄」というのは特殊スキルであり才能であり、それを持ってると色んな人が助けてくれるので生きていきやすい。だから、それを持ってない人でも公平に助けるのが公的扶助の役目だ。こういう主張をする人がいた。

これ、間違いだ。弱者は公的な救済に頼れという政治家や役人が大好きな言い回しには、多数決に認められるほど可哀想な人になって、政党の票田になるほど集団化して、政府の強制力の傘の下に入りなさいという論理が隠れている。 続きを読む 「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

1961年に描かれた「10年後の國民生活」

池田隼人政権下で実施された所得倍増計画のプロパガンダの一例として、1961年に経済企画庁の役人らが編纂して発刊された「10年後の國民生活」(國民生活硏究会 東洋經濟新報社)をあげる。

「倍増計画達成の際において国民生活のあるであろう姿を、具体的、写実的に」書いたという触れ込みだった。この中で、国民年金や老人福祉の発達は下ように描かれる。当時はベストセラーになるほどだったという。 続きを読む 1961年に描かれた「10年後の國民生活」

国家を清算しなければならない理由

法律は常に正しく作られるとは限らない。

かつて国家が奴隷制を合法としていたことは、疑いようもなく罪である。人間の自由を国家が法律によって奪っていたからだ。

他人の財産の自由を奪う徴税を国家はまだ合法にしている。本当にそれでよいのか?疑った方が良い。 続きを読む 国家を清算しなければならない理由

マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場

自由市場が少数弱者を無視するという主張は、政府のプロパガンダに過ぎなくて、市場に少数弱者を放置させるバイアスをかけているのは政府に他ならない。

「政府によって歪められた市場で少数弱者が無視される」のであって自由市場で少数弱者が無視されるというのは全くの錯誤だ。 続きを読む マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場

表現の自由と政府の衝突

表現の自由とは、「政府あるいは民主主義が表現を規制しないこと」。ところが、「誰もが表現を存分に行うことが望ましという態度のこと」だと書いた人がいた。これはよくある勘違い、あるいはごまかしだ。なんでこのようなごまかしが生じるのか考えてみることにした。 続きを読む 表現の自由と政府の衝突

人気のある政治テーマと人気のない政治テーマ

日本では、多くの政治テーマは人気がない。だが、ときおり人気のある政治テーマが生じる。例えば、日米安保や、共謀罪といったテーマである。

一方、政治家の不正とか、特定の勢力の利権の取り合いというのは大して人気がない。例えば、学費の無料化とか、保育園の無料化とか、ナントカマイノリティの保護といったテーマである。

日本の有権者の半分は、そもそも支持政党を持たない。それどころか投票行動だって取らない。政党間の利権の取り合いには、うんざりしていて、話を聞くのも嫌なのだ。

けれども、根本的なところで政府が自分たちの自由を制限することについては不満を表明しようとするという話である。

政党は、自分たちの利権の取り合いばかりにうつつを抜かし、私たちの自由を制限することについては無頓着である。それどころか、積極的に制限しようとしさえする。だから嫌われるのだ。

政党がお前らを助けてやる、だから投票しろ。そんな政党は嫌われて当然である。私たちは自分たちで生きている。政治は単に邪魔しないことを表明しさえすればよい。そんな簡単なことができる政党が日本にはない。

政府認定マイノリティの問題

航空会社の乗客と障害を持った客のトラブルが報じられた。

本来なら、航空会社と客の間にどういう契約があって、債務不履行があったのかなかったのかに問題が限定されるべきだ。だが、そこから外に問題が広がった。その時点で、事情は大きく変わった。

航空会社は、事前連絡を企業側が求めているにも関わらず、そのことを利用者も知っていて意図的に無視した。その契約内容について、市場の枠を超えて「社会」が当事者の取引に干渉しようとした。

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暴力

  • 「お前の子供は誘拐した、助けたければ金をよこせ」
  • 「お前の子供は病気だ、薬が欲しかったら金を払え」

第三者に許されることは、誘拐された子供を取り戻すことを手助けするか、病気の子供を治す手助けをすることである。

他の人から金を奪いとって困っている人に渡すことは正当化できないし、薬を持っている人から強制的にそれを奪い取ることも正当化できない。

誘拐は身体の自由を奪う行為である、金を奪い取ることは財産の自由を奪う行為である、薬を奪い取ることも財産の自由を奪う行為である。他者の自由を奪う行為はそもそも正当化できないのである。

 

 

真の民主主義は多数決にあらずというが、

真の民主主義は多数決にあらずというが、一人ひとりの意思を尊重するという立場なら、自由主義という言葉があるのだから、民主主義という言葉に執着しなくてもよいと思う。

自由主義を否定する立場から、自分に都合のよい「理想の権力」を正当化するために民主主義を信奉する人もいる。そういう人が民主制は多数決であるという以上の意味を民主制に与えるのは、論理的に無理なことだよね。

政治家や役人や民主主義が建前の押し付け合いをするのだって、理想の押し付け合いなんだよ。その建前を壊したら、別のところでつじつまが合わなくなるような理想なんだね。そもそも多様な人々が理想を共有できるなんて仮定が無理なのだから、つじつまが合わなくなるのは最初から当たり前なんだよ。

「理想の社会」を共有するためのタテマエをどんどん補強してエスカレートさせれば、本当に理想を統一していかねければならない。それって人の考え方や生き方の多様性の否定だよ。

自由を奪っていくことになるのは、最初から予定されているわけだね。