自由と道徳

殺人の自由

飲食店内でのタバコ規制に反対するというと、殺人の自由をなんでお前は主張しないのだ?という乱暴な意見が投げかけられてきたりする。それによって、自由とは危険なもので規制されるべきだという詭弁である。

殺人の自由を提示することによって自由を否定することはまったく間違っている。他人を殺すというのは、他人の自由を完全に奪う行為である。自由を尊重するという立場からは決して許されるものではない。同様に、他人の私有地でタバコを規制するというのも、他人の財産の自由を奪うことである。

政府の規制

公の施設で喫煙を禁止するというならともかく、飲食店は所有者のある私有地であるから、規制は財産の自由と営業の自由を奪うことになる。禁止するか許可するかは、本来所有者が決められるべきことである。公有地で自由を制限することは区別しないと混乱が生じる。

現に政府が個人の自由を頻繁に奪っていることは、そもそも不当なことである。人は他者の自由を奪う権利を持たない。公の権力は、たかだか複数の人の総意に過ぎない。多数決で選ばれた代表者であっても、個人の自由を奪う権利を持たない。つまり、公の権力が自由を奪うことは、肯定されるべきものではない。

自由を与えればヘイトスピーチだろうが人前での喫煙だろうが、なんでもまかり通ると主張する人は、自由の力を理解できていない。それは、政府の強制力の中で暮らして、そうでない状態を想像しようとしないからである。

自由な社会はどのように機能するか

理想的に自由な社会では、どんなに失礼なことを言おうとも、それが他者の自由を奪うものでなければ肯定される。つまり、政府の規制がなく自由である。

だが、迷惑をまき散らしている人が生きていけるかどうかは当人の責任である。乱暴なふるまいをする人は、他者から嫌われ、協力関係を築くことが難しい。他者を尊重しないふるまいは不利益が大きくなる。

自由でない社会では、国が税を介して私たちの生活に介入する。どんなに嫌な人間でも、多数決が要求する限り強制的に助けさせるのである。迷惑をまき散らしている人をも助けることが強制されるから自由な社会とは異なり、乱暴者が乱暴でいることによって不利益が生じない。

人々の乱暴な振る舞いの多くは、政府の保護があるからこそなされるものなのである。

憎悪は自由を奪われることによって生じる

ヘイトスピーチや排外主義というものは、国の干渉が助け合いを強制することによって生じるているという一面もある。

自由な社会であれば、単に嫌な相手から距離をとれば済むのに、国の干渉を大きくすれば、国によって狭い共同体を強制されるから、距離をとる自由が失われる。どんな動物でも、不安なら離れて観察し、少しずつ近づく。そうでないと危険だから、怖いのだ。だが、無理やり狭い柵の中に入れれば、互いを牽制するようになる。嫌な人も付き合うことを強制されてしまうから憎悪や恐怖を引き起こしてしまうのである。

結局、国の規制を大きくして自由を制限することでヘイトスピーチをなくせという考え方は、基本的なところに欠陥のある無理な話だ。実際にヘイトスピーチ規制を導入すれば、国の干渉を大きくして自由を制限することはできるけれど、それによって憎悪がなくなるわけではない。それは、政府を肥大させる結果にしかならず、ヘイトスピーチは姿を変えた別の形の憎悪に変化するだけだろう。

自由な社会は穏やかである

自由な社会では、迷惑をまき散らしながら生きることは、そもそも選択されない。無理に乱暴な生き方を選択したら、他者と協力関係を築くことが困難になり、苦労することになるからだ。

制限された社会では迷惑をまき散らしながら生きても平気だ。場合によっては、そのほうが得になってしまう。だからいつも乱暴な話になるし、その反動も大きなものになる。

自由な合意の重ね合わせによって生じる自然な秩序の中にいる者は、他者をないがしろにすることができない。損するからだ。規制の積み重ねで作られた強制力の枠の中にいる者たちは、規制を出し抜いたり、抜け道をわざと作ることで得してしまう。それが、利権とか搾取というものである。

自由な社会は、規制だらけの自由の奪われた社会よりも、ずっと穏やかなのである。

自由な社会では、道徳を自然に身に着ける

善悪を感じ分ける能力が淘汰されずに生き残るのは、進化の中でも、文化の中でも、成長の中でも、その方が都合がよかったからだろう。

善悪というものは、そもそも損得と結びついていないはずがない。自由な社会であるならば、自然に生活する中で、互いに、その方が得だという事実を、教え続けることになるだろう。

ところが、自由な社会でないなら善悪と損得の関係は簡単にひっくり返ってしまう。乱暴なふるまいをした方が得になってしまうようになる。こうして、自由のない社会では、道徳を強制的に教えなければならない前提が生じてしまう。もちろん、そのような乱暴な社会では、不自然な道徳の強制によって得するのは道徳や倫理を蹴っ飛ばす乱暴な人である。

 

最低賃金制度という経済的徴兵制

飲食店が商品の最低価格を政府に1500円に決めてもらったら、ラーメン屋は幸せになれるだろうか?ラーメン屋にやってくる客は少なくなり、店は立ち行かなくなるかもしれない。ラーメン屋からステーキ屋に業態を変えれば済むかもしれない、だがそれには大変なコストが必要だ。捻じれた市場では高級料理店の競争率も上がってしまい、決して飲食業は楽にならない。分業のコストばかりが高くなり、消費者もまた晩御飯を自炊するしかなくなってしまうだろう。

最低賃金制度はこれとよく似た制度だ。最低賃金を1500円に増やせば、1500円以上で求人をだす会社に、多くの労働者が集まることになる。労働者は今までよりも採用されることが難しくなって、事業者の要求は高くなる。それで、労働者は幸せになるだろうか?選択の自由を失うことで、一層過酷な競争を強いられるだろう。

多くの低賃金労働者にとって、今より高い賃金水準で雇われる方法がないわけではない。危険な労働や、人のやりたがらない仕事はならば、見つけられることができる。ある人は選択するだろうし、別の人は、体力的にきつかったり、精神的につらかったりするから、選択しないだろう。嫌なら選択しないことができる、これが職業選択の自由である。

体を売りたければ体を売ればよい。だが、最低賃金制度はそれ以外の選択肢を奪う。体を売るしかないから体を売るという状況を政府が作るのが最低賃金制度の機能だ。もちろん、職業選択の自由を奪うことに他ならないから、憲法22条にも反している。

最低賃金の押し上げを要求することで得をするのは、大企業の労組の幹部や、それを背景とする政党であって、本当の弱者ではないことに注意しよう。最低賃金法は、すでに雇われている人の地位を一時的に高くするかもしれないが、多くの人にとっては、失業する低賃金労働者を踏みつけて得ることができる特権はそれほど魅力的なものではない。雇用主からみて「代わりがいくらでも見つけられる」状態が生まれるからだ。当然のように無理な要求をする事業者は増えるだろう。そしてそれを拒否しようとも、職を失えば再就労は難しいという状況が作られる。

つまり、最低賃金法は、ブラック企業を無くす法律ではなく、ブラック企業を作り出す法律なのである。

政府に雇用を規制させる最低賃金法は、政府に都合のよい経済的徴兵制ともなりうる。兵士や原発事故の後始末の作業より安く雇うことを政府が禁止すれば、低賃金労働者にそれを強制することさえできるからだ。

人手不足で倒産するアベノミクス

正しい税金の使い方

ある使途に税金を使うことが正しいと言える必要条件は、それぞれの納税者が徴税されない場合に手に入れるものより、税を介して強制的にそれに投じさせるほうが利益をもたらすことを証明できる場合である。

そのような証明が存在しないならば、それぞれの納税者から他の使途に使う自由を奪うことは正当化できない。もし、そのような証明が存在するならば、強制的に徴税せずとも人々は自発的にその事業に出資するだろう。ゆえに、正しい税金の使い方は、税金を使わないことである。

人々は、徴税されるべきでない。

 

税金という仕組みは、そもそも正当化できるものではないにも関わらず、納めることがさも当たり前だと信じられている。また納めさせることが正義であるとすら信じられている。だが、それは間違いだ。

あらゆる物事に政府が干渉してしまっている結果、税金がなければ回らないような社会が確かに目の前にある。だが、目の前にある社会というものも回ってはいない。せいぜい将来に負債を積みながら、目の前に喧噪を作り出しているに過ぎない。そこにあものは破綻に向かって突き進むだけで、決して回ってはいない。

第二労組と連合

残業規制が国会で議論されるようになっている。

100時間という数字を連合と経団連が議論し、政府がそれを受け入れるという構図がある。連合がだらしないとか、経団連がけしからんとか、政府が乱暴だとかいう人も少なくない。

だが、既成の労組から自立しない労働者こそ、だらしないのではないだろうか。

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無責任で危険な公共事業

安心でも安全でもなんでもよい。せめて、問題が起きたときに賠償するのが誰なのかくらい、最低限はっきりさせるべきだろう。公共事業や政府の関与した国策事業といった公営事業の事故や失敗をみるたびにそう思う。

責任を負うというのは頭を下げることや言い訳をいうことではない。最終的に問題が起きたときにその費用を弁済することである。誰かが経済的責任を負ってリスクを評価できるというなら、その人が責任を負って事業をすればよい。だが、そうでないなら始めるべきではないだろう。 “無責任で危険な公共事業” の続きを読む

「権力は自分の望む姿であるべきだ、私が悪いとみなすものを政府は規制しろ」

「権力は自分の望む姿であるべきだ、私が悪いとみなすものを政府は規制しろ」そんなのは、独裁者になりたいというのと同じである。

結局、自分に都合の良い理想の暴力を正当化して、それは暴力でないと誰かが決めてくれることを求めているだけだ。

そんなことを望んでも、実際に作られるのは自分に都合の良い暴力ではない。既成の枠組みで優位になる集団にとって都合の良い暴力である。

望むことはできる、だが、いつまでも権力を否定せずに現状批判に終始することになる。

決定者を責任者とみなすことで自分が免責されたいという態度は、結局のところ自分の生き方に対する責任の放棄から生じている。

自分に対して無責任な人をいかに増やすかというのは政府のあらゆる政策の先にある。

自分に対して無責任な人が、政府の権力拡大を求め、さらに自分に対して無責任な人を増やしていく。

自分に対して無責任な人が、多数決で権力を作ることを正当化し、しかも多数決で優位にある。

自己増殖する癌細胞みたいだ。

 

労働環境の問題は権力によって解決されない

労働環境を改善する唯一の方法は、労働者が自発的に労働環境を選ぶことである。置かれている状況が望まない待遇なら、望む待遇の事業者に雇用されるように自分で選択すればよい。あるいは、同じ思いを共有できる仲間を募って、自分で創業してもよいかもしれない。職業選択の自由は、自ずと可能な限度まで労働環境を改善する。

売り手は高く売ろうとし、買い手は安く買おうとする市場において、労働者が辞めたくてもやめられない事情があるときに労働者の待遇が低下するとしても、まったく当然である(無理やりそれを停止しろというなら、人々から経済的自由を奪うしかない)。そこに職業選択の自由を奪うものがあるから辞めたくてもやめられないとすれば、問題は「何が職業選択の自由を奪っているのか?」である。

普通に考えれば、雇用主は労働者から直接搾取することはできない。労働者をロープで括りつけて労働を強制することはできない(それは明白な犯罪である)。だが現実には、雇用主とは別の何者かが労働者を見えないロープで縛り付けている。政府の強制力によって作られる規制や課税である。そこに見えにくい搾取が隠れている。

あらゆる雇用に関する規制は、職業選択の自由を制限することはあっても、職業選択の自由を増やすことにはならない。職業選択の自由を制限すると、労働者の待遇は悪化する。待遇が悪くても別の選択肢を選ぶことができなくなってしまうからだ。

労働者が権力に規制を求め、(職業選択の自由を政府が侵してはならないとする憲法をちゃっかり無視して)それを推し進めても、問題を肥大させながら右から左にしわを寄せ、都合よく利権を作り出すだけになる。そのたびに人々の生産した成果が権力によって搾取される事情が増え、労働者の経済的自由が政府によって搾取されることによって、労働者が過酷な環境から逃れる道を失うという結果を導く。

政府の権力自体が本質的に何も生産しない以上、人々が自発的に解決できないものはいかなる政府によっても解決されるはずがない。これは、まったく仕方のないことだろう。政府に自由を奪わせるたびに、人々が自発的に解決することが困難になっていくしかない。

最低賃金制度による過酷労働の強制

残業規制

 

自由を奪われることで、良心は殺される

実際には国債を発行して将来に費用をつけまわす教育の「無償化」や、税金による保育や福祉の拡充が語られる。

税金によって嘘の無償化や嘘の割り引きをされた事業は、目の前の消費者に対する競争をしなくてよくなる。これは、公共事業一般に語られる深刻な腐敗の原因である。だが、消費者に対する競争が終わって終わりではない。そこから、役人に紙切れを書く競争が始まるのである。

無意味な課題を強制され、目に見える問題を解決せず放置することを強いられるようになる。こうして、自由を奪われることで良心は殺される。

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政治の犯罪

他人と合意して取引する、そして結果的に失敗する。そうなったら、契約の範囲内で債務の不履行を弁済しなければならない。

合意していない他人の財産を奪って何かの使途に支出することを強制する、それで失敗した。そうなったら、被害を弁済しなければ犯罪者として懲罰を受けなければならない。

前者が商取引における失敗であり、後者が政治権力の行使における失敗の話だ。ところが実際には政治家も公務員も被害を弁済することもなければ収監されることもない。

人が一生かかっても返せないような損害を生じさせても、建前を掲げながらのうのうと生きている。このような犯罪を無くさなければならないのは、当然である。

政治から自由になる

現実に私たちは政治に自由を縛られている。

私たちは、政治の作り出した観念に縛られてしまってしまいがちで、それを当たり前のことだと思い込もうとしている。けれども本当は、政治から自由になりたいと感じている。

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