コロナウイルスによって生じるカオス?

世間はコロナウイルス騒ぎでもちきりだ。

いくつもの商品の買いだめが起き、トイレットペーパーやマスクは在庫調整が進まず、あっちからもこっちからも悲鳴が聞こえてくる。商売を縮小してリモートワークに移行しようとしたり、営業を停止してしまう事業者も増えてきた。

こんな中で、政府の社会主義政策のひずみは顕在化する。

経営者たちが商売を抑えながらなんとか乗り切ろうと耐えている一方で、活発な老人たちはあちらこちに動き回り、いかにも感染症を媒介したんじゃないかというニュースが話題になったり、朝からドラッグストアに行列を作ったりする。

一方で医療機関がリソース不足にあえぎ皆保険の限界が見えるようになってきても、他方の公営年金は健在だ、政府は老人たちに金を配り、彼らの外出を奨励し、足りないリソースを買い漁らせている。政府がばらまくカネは死に金だから、大切な資源も死蔵されがちになる。あれ????って思わないか? だが、これは公営社会保障の通常運転だ。

リスクが適正に織り込まれない保険があると(たとえば公営保険や公的年金のような)、無駄にリスクを取りに行く者が生じてしまう。リスクが市場によって織り込まれないから、そのリスクをとるだけの値打ちがあるのかどうなのか、そもそも分からなくなってしまっているのである。(市場なくしてどうして「値打ち」が分かろうか!)

本来ならリスクや機会は、価格というかたちで市場における交換を通じて調整されるはずのものである。自由な関係の中でこそ、穏やかに非合理は調整され、そこにモラルが生じる。政府の強制力による配分が行われると、市場による調整機能は失われ、モラル・ハザードが生じる。(モラル・ハザードとは本来そういう意味だ!)

ある時点での政府の計画は、市場でテストされないまま政府の強制力によって行使され続ける。急速に事情が変化すると、その影響が大きく増幅される結果を見る。自由の欠如によって、価格が非合理なまま調整しようとするから、理不尽な話だらけになってしまうのである。かくして、人々の間抜けな悲鳴が聞かれるようになる。

そうなったとき、政府は逆向きの調整を試みようとするかもしれない。けれども、価格という情報が見えないから、その調整もまた行き過ぎたり足りないものになる。政府は原理的にあてずっぽうになるのであり、それゆえに人々は振り回されるのである。

残念なことに、社会主義政策のカオスが拡大しても、政府は何もするな!と正しく述べる人は少ない。多くの人は、「価格という情報が見えない」に気づかない、それもまた、「価格という情報が見えない」から導かれる必然なのである。

大衆は、さらなる政府による強制力の行使を求め、政府はそれに応じようとする。政府は価格統制を試みたり配給を試みたりする、潰れそうになった事業者にカネをばらまいて救済を試みたりするかもしれない。だが、そうすることが妥当なのか、そもそも分かりようがないから、政府の精力的な活動によって、カオスはさらに深く大きく発達するのである。

人々は、この混沌が一部の道徳心のない不心得者のせいで起きているのだと思い込もうとする。だが思い出してほしい、良心とか道徳は自由の中にこそ生じるものであり、自由な市場が妨げられることによってこそモラル・ハザードは生じるのである。リスクも道徳も「価格という情報が見えない」世界では「値打ち」が分からない、だから、人々は迷子になってしまうのだ。

遅かれ早かれ、表面的にはコロナ禍は収束するだろう。後になって、政府はきっと、当てずっぽうに使った多額の費用を納税者に要求し、さらに横柄な態度で、感染症を口実に作り出した利権を養い続けなさいと迫ってくるに違いない。(本当に、カオスはさらに深く大きく発達する!)

公的年金制度は民主主義が強いるネズミ講

先行世代を養うために、後の世代に負担させることを前提とする日本の公的年金制度は、設計も実態も無限連鎖講(ネズミ講)そのものである。

人口増加の局面でしか成り立たない仕組みを、人口の多い世代が押し通し、それを国の制度であるといって、投票権すらなかった後発世代に押し付けた。単なる詐欺である普通の無限連鎖講よりも酷い、政府の強制力を利用した暴力といったほうがよいかもしれない。 “公的年金制度は民主主義が強いるネズミ講” の続きを読む