少子高齢化を口実とした人身売買

>出産・育児のコストが一方的に女性にかかっている事が少子化の原因だ。

私は少子化を解消してほしいなんて思わないから、これ以上こっちに税負担を押し付けようとしないでほしいと思う。

他人に金を出させて子育てしようとする連中と、他人に子供を産ませて何か得しようとしてる連中で、「子供に老後をみてもらう権利」を売り買いしたらどうだ?

  • そんな下劣な取引を私はしたくないし、公権力によって強制すればそんなカネの流れすら作れるという発想は気持ち悪いとしか思えない。

「社会保障を維持するためのカネの担い手が必要だ」という連中が少子化を問題だといい、「子育てをするカネをだせ」という連中が少子化を引き合いに出す。 この構図、児童売買そのものじゃないか?

児童売買、やりたい人間が勝手にやるなら、まあ好きにしろと思う。

その是非を飛び越して、国家が全体を強制的に巻き込んでやる議論を大人たちが公然としているのだ。実に気持ち悪い。

同性愛者差別を教えられない学校

滋賀県の公立小学校でのいじめ防止授業で、登壇した女性弁護士が「100人に1人が同性愛者なので、この中にもいる」と発言したことについて教育関係者や弁護士会が問題視していることが話題になっていた

その発言は、子供たちの中に同性愛者探しを引き起こし、いじめを招くというのだ。まぁ、たしかにそういうこともあり得るだろう、容易に想像できる。

というのも、嫌な相手と距離取る、無視する、生理的嫌悪感を抱く、そこから去る、不参加を選ぶ、という自由を認めない「学校」という異常な空間での話だからだ。

嫌な職場からは辞めればよいし、嫌な客との取引は断ればよい。相手を選ぶことは、誰もが持っている当然の権利だ。そこに、理由なんて必要ない。これは、職業選択の自由とか、営業の自由とか、思想信条の自由とか、幸福の自由といった、自由権によって説明される。

ところが学校という異常な空間では、強要や暴行といった純然たる暴力と、まったく当然の権利行使(無視する、距離を取る)を抱き合わせて「いじめ」と呼ぶのが「学校」という異常な場所である。…………距離をとることができないあまりに自殺する生徒もいるくらいだ。

そもそも強制的な公教育こそが本質的に暴力なのであり、「多様性」を前提としたものではまったくない、ということを認めていれば、たしかに前述の弁護士の発言は「配慮を欠いた発言だった」と言えるだろう。

 

雇用がオワコン

かつては日本のサラリーマンの給与収入は右肩上がりが珍しくなかった、というか、普通だった。しかし、いまでは必ずしもそんなことは言えなくなってきている。そして、その傾向はこれからもっと大きくなっていくはずだ。

日本の雇用規制は次第に強化されてきた。最低賃金は上昇し、労働法はより厳しく運用されるようになった。契約社員の5年ルールも追加され、残業規制も強化された。この結果おきたのは、労使双方にとっての雇用契約を結ぶメリットの低下だ。

雇用契約を結ぶこと自体のコストが上昇し、それが賃金水準や期待される収益・株価に織り込まれたとき、そんな水準では雇われるメリットがないと労働者が感じるようになったり、そんな雇用をしない方が得だと経営者が感じるようになったとしたら、もはや雇用はオワコンである。すでに人々は、雇用契約を結ぶことを放棄して別の形で生きなければならなくなってきているわけだ。

以前から、法規制を増やして経営が成り立たない会社は消えるべき、株主への分配なんて減らして労働者に配れ、などと無責任になじる人はいた。今さら彼らを非難してもどうしようもないだろう。というのも、実際に彼らの声は政治的に強かったし、現実に彼らは民主主義の制度の中で勝利したのである。雇用規制は着々と強化されてきたし、すでにそこに根をおろしてしまった人がいる以上、いまさらそれを逆転させる話が進むはずもない。

他人の労働に投資して利益を得るというモデル、あるいは、労働者の成長に投資して利益を回収するというモデルが否定されたからには、企業というプラットフォームに雇用契約によってぶらさがって生きることが難しくなるとしてもまったく当然のことだ。

そもそも、資金の余裕を持つ人が事業に投資し(時には余裕がなくても投資する人もいたが)、そうして生じた法人が人々を雇用するという形式で分業構造を作ったのが、従来の典型的な企業体だった。そこには投資する人と雇われて労働する人という分業の構図があったわけだが、それは少しずつ消失している。

投資家と労働者という分業関係が壊れた先にあるのは、資金に余裕があろうとなかろうと、各人が自ら投資家の役回りをして、自らの責任で時間や財産を投資・運用することによってしか所得を増やせない社会だ。労働者として雇用されていればいつの間にか会社が運用して利益を回してくれるということはもはやなくなっている。

市場における分業を公権力が制限すれば、何をするにしろ個人の体力で勝負するしかない状況に近づいていく、その結果を経験するしかない。

今後は、人手によって行われていたタスクは、次第にロボットやネットサービスを介して行われるようになるだろうし、それを制御するソフトウェアやそれが提供するコンテンツは、雇用契約を介さずに製作者にインセンティブを支払う方向に調整されるだろう。高度な技能を有する一部のエリートを囲い込むための最小限の雇用契約は残るかもしれないが、下辺側で人材を雇用することは合理的とはみなされなくなっていく。

すでに、日本のフリーランスは1000万人を超えたといわれるようになった。多くの人が雇用契約から離れようとしたり、離れるしかないと気づいている。

政府が雇用契約を制限しても、テクノロジーや市場経済の発達のおかげで労働力を調達できるようにはなっていくだろう。当面発生する余計のコストは、人々の報酬から割り引かれる形で調整されるだろう。それがバカバカしいコストであることは言うまでもないが、仕方あるまい。