正しい税金の使い方

ある使途に税金を使うことが正しいと言える必要条件は、それぞれの納税者が徴税されない場合に手に入れるものより、税を介して強制的にそれに投じさせるほうが利益をもたらすことを証明できる場合である。

そのような証明が存在しないならば、それぞれの納税者から他の使途に使う自由を奪うことは正当化できない。もし、そのような証明が存在するならば、強制的に徴税せずとも人々は自発的にその事業に出資するだろう。ゆえに、正しい税金の使い方は、税金を使わないことである。

人々は、徴税されるべきでない。

 

税金という仕組みは、そもそも正当化できるものではないにも関わらず、納めることがさも当たり前だと信じられている。また納めさせることが正義であるとすら信じられている。だが、それは間違いだ。

あらゆる物事に政府が干渉してしまっている結果、税金がなければ回らないような社会が確かに目の前にある。だが、目の前にある社会というものも回ってはいない。せいぜい将来に負債を積みながら、目の前に喧噪を作り出しているに過ぎない。そこにあものは破綻に向かって突き進むだけで、決して回ってはいない。

第二労組と連合

残業規制が国会で議論されるようになっている。

100時間という数字を連合と経団連が議論し、政府がそれを受け入れるという構図がある。連合がだらしないとか、経団連がけしからんとか、政府が乱暴だとかいう人も少なくない。

だが、既成の労組から自立しない労働者こそ、だらしないのではないだろうか。

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無責任で危険な公共事業

安心でも安全でもなんでもよい。せめて、問題が起きたときに賠償するのが誰なのかくらい、最低限はっきりさせるべきだろう。公共事業や政府の関与した国策事業といった公営事業の事故や失敗をみるたびにそう思う。

責任を負うというのは頭を下げることや言い訳をいうことではない。最終的に問題が起きたときにその費用を弁済することである。誰かが経済的責任を負ってリスクを評価できるというなら、その人が責任を負って事業をすればよい。だが、そうでないなら始めるべきではないだろう。

政府の関与しない純粋な民間事業であれば、失敗の責任は当事者にある。ところが公営事業の場合には事情が大きく変わる。失敗したときには納税者が負担しろという話になってしまうのだ。

問題が起きたときに賠償するのが納税者だと言われても、多くの人は評価するための材料すら与えられないし、リスクを評価する能力だって持ち合わせていないだろう。勝手に評価する義務を加えられても困るというものである。ところが、納税者が強制的に「責任」を負わされてしまう。最終的に責任を取る者がリスクを評価しない、それでも無理やり推し進める。あらゆる公営事業は本質的に無責任なのである。

うまくいっている間は関係者の利益にして、うまくいかなくなったら納税者の負担にする。リスクを評価できない大衆に責任を押し付ければ、リスクを評価する必要がなくなってしまう。こうして他者の財産にリスクを背負わせると言う行為は本質的に搾取でもある。

公共事業の無責任は、単に搾取であるだけでない、社会にとって危険でもある。リスクを評価する過程を消し去って事業を行うことになるからだ。現代の公営事業は規模が大きすぎて抱えるリスクもとても大きい。原子力の問題にみられるように、無責任の結果は現役世代では解決されず、将来へとつけまわす水準にまで膨れ上がる。場合によっては生命や国土への危険を及ぼすほど大きなリスクが放置されてしまうのである。

もちろん、事業とは「安全ならばよい」わけではない。公共事業の持つ本質的な無責任は、採算性を簡単に無視してしまう。安全のためのコストをいくらでもかければ事業を始めてもよいだろうか?そういうものではない、安全のためのコストを織り込んでなお、人々に豊かさをもたらすものでなければならない。政府が無責任にコストを納税者に転嫁して人々の経済的自由を奪えば、人々が人生の他の部分でリスクを背負わなければならなくなってしまう。それを安全・安心と呼んでも、まったく意味はない。

公営事業が失敗すると、役人は頭を下げて謝るという儀式をしてくれる。だが、そんなものは何の役にも立たない。公共事業は減らし、責任のとれる民間の出資者、事業者が行うにまかさなければならない。なぜなら、公共事業は無責任であり、搾取であり、しかも危険であり、あるいは非効率だからである。

公営事業の民営化のあるべきかたち

経済的自由の喪失

「権力は自分の望む姿であるべきだ、私が悪いとみなすものを政府は規制しろ」

「権力は自分の望む姿であるべきだ、私が悪いとみなすものを政府は規制しろ」そんなのは、独裁者になりたいというのと同じである。

結局、自分に都合の良い理想の暴力を正当化して、それは暴力でないと誰かが決めてくれることを求めているだけだ。

そんなことを望んでも、実際に作られるのは自分に都合の良い暴力ではない。既成の枠組みで優位になる集団にとって都合の良い暴力である。

望むことはできる、だが、いつまでも権力を否定せずに現状批判に終始することになる。

決定者を責任者とみなすことで自分が免責されたいという態度は、結局のところ自分の生き方に対する責任の放棄から生じている。

自分に対して無責任な人をいかに増やすかというのは政府のあらゆる政策の先にある。

自分に対して無責任な人が、政府の権力拡大を求め、さらに自分に対して無責任な人を増やしていく。

自分に対して無責任な人が、多数決で権力を作ることを正当化し、しかも多数決で優位にある。

自己増殖する癌細胞みたいだ。

 

労働環境の問題は権力によって解決されない

労働環境を改善する唯一の方法は、労働者が自発的に労働環境を選ぶことである。置かれている状況が望まない待遇なら、望む待遇の事業者に雇用されるように自分で選択すればよい。あるいは、同じ思いを共有できる仲間を募って、自分で創業してもよいかもしれない。職業選択の自由は、自ずと可能な限度まで労働環境を改善する。

売り手は高く売ろうとし、買い手は安く買おうとする市場において、労働者が辞めたくてもやめられない事情があるときに労働者の待遇が低下するとしても、まったく当然である(無理やりそれを停止しろというなら、人々から経済的自由を奪うしかない)。そこに職業選択の自由を奪うものがあるから辞めたくてもやめられないとすれば、問題は「何が職業選択の自由を奪っているのか?」である。

普通に考えれば、雇用主は労働者から直接搾取することはできない。労働者をロープで括りつけて労働を強制することはできない(それは明白な犯罪である)。だが現実には、雇用主とは別の何者かが労働者を見えないロープで縛り付けている。政府の強制力によって作られる規制や課税である。そこに見えにくい搾取が隠れている。

あらゆる雇用に関する規制は、職業選択の自由を制限することはあっても、職業選択の自由を増やすことにはならない。職業選択の自由を制限すると、労働者の待遇は悪化する。待遇が悪くても別の選択肢を選ぶことができなくなってしまうからだ。

労働者が権力に規制を求め、(職業選択の自由を政府が侵してはならないとする憲法をちゃっかり無視して)それを推し進めても、問題を肥大させながら右から左にしわを寄せ、都合よく利権を作り出すだけになる。そのたびに人々の生産した成果が権力によって搾取される事情が増え、労働者の経済的自由が政府によって搾取されることによって、労働者が過酷な環境から逃れる道を失うという結果を導く。

政府の権力自体が本質的に何も生産しない以上、人々が自発的に解決できないものはいかなる政府によっても解決されるはずがない。これは、まったく仕方のないことだろう。政府に自由を奪わせるたびに、人々が自発的に解決することが困難になっていくしかない。

最低賃金制度による過酷労働の強制

残業規制