国家を清算しなければならない理由

法律は常に正しく作られるとは限らない。

かつて国家が奴隷制を合法としていたことは、疑いようもなく罪である。人間の自由を国家が法律によって奪っていたからだ。

他人の財産の自由を奪う徴税を国家はまだ合法にしている。本当にそれでよいのか?疑った方が良い。 続きを読む 国家を清算しなければならない理由

終戦直後の軍需物資の放出

1945年8月14日の降伏決定の手続きが終了すると、鈴木貫太郎内閣は当日中に戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件」を指示した。軍需物資を、占領軍上陸前に民間に放出せよ、という指示だった。

玉音放送の前日、当時の価格で1000億円相当の膨大な軍需品(米、麦、雑穀、缶詰、砂糖、医薬品、燃料、綿布、ゴム、鉄、銅電線など)が放出され、軍需工場の民営化が指示されていた。財閥解体時の大財閥の財産が3億円~5億円、当時のGDPが200億円程度だったのだから、いかにも大規模な資本流出だった。

鈴木内閣の総辞職後、東久邇宮内閣が成立すると、米軍は放出の停止を命令した。しかし政府は、8日間に渡って放出を黙認し続けた。

 

政治の犯罪

他人と合意して取引する、そして結果的に失敗する。そうなったら、契約の範囲内で債務の不履行を弁済しなければならない。

合意していない他人の財産を奪って何かの使途に支出することを強制する、それで失敗した。そうなったら、被害を弁済しなければ犯罪者として懲罰を受けなければならない。

前者が商取引における失敗であり、後者が政治権力の行使における失敗の話だ。ところが実際には政治家も公務員も被害を弁済することもなければ収監されることもない。

人が一生かかっても返せないような損害を生じさせても、建前を掲げながらのうのうと生きている。このような犯罪を無くさなければならないのは、当然である。

人気のある政治テーマと人気のない政治テーマ

日本では、多くの政治テーマは人気がない。だが、ときおり人気のある政治テーマが生じる。例えば、日米安保や、共謀罪といったテーマである。

一方、政治家の不正とか、特定の勢力の利権の取り合いというのは大して人気がない。例えば、学費の無料化とか、保育園の無料化とか、ナントカマイノリティの保護といったテーマである。

日本の有権者の半分は、そもそも支持政党を持たない。それどころか投票行動だって取らない。政党間の利権の取り合いには、うんざりしていて、話を聞くのも嫌なのだ。

けれども、根本的なところで政府が自分たちの自由を制限することについては不満を表明しようとするという話である。

政党は、自分たちの利権の取り合いばかりにうつつを抜かし、私たちの自由を制限することについては無頓着である。それどころか、積極的に制限しようとしさえする。だから嫌われるのだ。

政党がお前らを助けてやる、だから投票しろ。そんな政党は嫌われて当然である。私たちは自分たちで生きている。政治は単に邪魔しないことを表明しさえすればよい。そんな簡単なことができる政党が日本にはない。

正しい税金の使い方

ある使途に税金を使うことが正しいと言える必要条件は、それぞれの納税者が徴税されない場合に手に入れるものより、税を介して強制的にそれに投じさせるほうが利益をもたらすことを証明できる場合である。

そのような証明が存在しないならば、それぞれの納税者から他の使途に使う自由を奪うことは正当化できない。もし、そのような証明が存在するならば、強制的に徴税せずとも人々は自発的にその事業に出資するだろう。ゆえに、正しい税金の使い方は、税金を使わないことである。

人々は、徴税されるべきでない。

 

税金という仕組みは、そもそも正当化できるものではないにも関わらず、納めることがさも当たり前だと信じられている。また納めさせることが正義であるとすら信じられている。だが、それは間違いだ。

あらゆる物事に政府が干渉してしまっている結果、税金がなければ回らないような社会が確かに目の前にある。だが、目の前にある社会というものも回ってはいない。せいぜい将来に負債を積みながら、目の前に喧噪を作り出しているに過ぎない。そこにあものは破綻に向かって突き進むだけで、決して回ってはいない。

ガラパゴス化と家畜化

実際、役所から仕事をもらうのも、決して楽ちんではない。

役所から仕事をもらうための熾烈な競争があるわけだ。ただし、その競争は消費者に対する競争ではない。だから、役所の方針が変わったら、いらないものになってしまう。予算の打ち切りとともに破綻する事業者は後を絶たない。この、役所に適合するための競争、それによって起こる歪んだ進化は、ガラパゴス化と揶揄されたものに他ならない。役所から良い条件で仕事をもらっている事業者、いわゆる利権は腐敗する。

生物史でとりあげられるガラパゴス諸島で起きた特異な進化は、閉鎖環境における自然淘汰の結果だ。だが、役所に適合するための進化は金魚やペットの犬猫の選別淘汰のような不自然なものである。だから、家畜化といったほうが正しい。家畜化した事業者は市場で自力で生き残ることができなくい水準まで生産性が低下する。限られた資源を、役所の条件に合わせるために食いつぶしてしまうからだ。役所から仕事をもらうための熾烈な競争は、市場での評価ではなく、予算獲得の建前や、それを押し通す助けになる縁故を作り出した者が勝ち残る。

疲弊した家畜は、より良い製品やサービスを作ることによってではなく、許されるギリギリまで建前を肥大させることによって生き残ろうとする。生き残るための競争が不正を作り出すのは、その競争が消費者を獲得するための競争ではなく、役人に認められるための競争だからである。今の日本は、納税者のカネを手に入れるための紙切れを書く競争だらけだ。大企業も中小企業も、保育園も大学も、みんな一緒である。役人に選ばれる競争ではなく、市場に選ばれる自由競争でなければ、意味がない。

腐敗した社会全体が無意味な競争に縛られ、ただすり減っていく。それは、ガラパゴスだからではなく、家畜だからである。

暴力

  • 「お前の子供は誘拐した、助けたければ金をよこせ」
  • 「お前の子供は病気だ、薬が欲しかったら金を払え」

第三者に許されることは、誘拐された子供を取り戻すことを手助けするか、病気の子供を治す手助けをすることである。

他の人から金を奪いとって困っている人に渡すことは正当化できないし、薬を持っている人から強制的にそれを奪い取ることも正当化できない。

誘拐は身体の自由を奪う行為である、金を奪い取ることは財産の自由を奪う行為である、薬を奪い取ることも財産の自由を奪う行為である。他者の自由を奪う行為はそもそも正当化できないのである。

 

 

真の民主主義は多数決にあらずというが、

真の民主主義は多数決にあらずというが、一人ひとりの意思を尊重するという立場なら、自由主義という言葉があるのだから、民主主義という言葉に執着しなくてもよいと思う。

自由主義を否定する立場から、自分に都合のよい「理想の権力」を正当化するために民主主義を信奉する人もいる。そういう人が民主制は多数決であるという以上の意味を民主制に与えるのは、論理的に無理なことだよね。

政治家や役人や民主主義が建前の押し付け合いをするのだって、理想の押し付け合いなんだよ。その建前を壊したら、別のところでつじつまが合わなくなるような理想なんだね。そもそも多様な人々が理想を共有できるなんて仮定が無理なのだから、つじつまが合わなくなるのは最初から当たり前なんだよ。

「理想の社会」を共有するためのタテマエをどんどん補強してエスカレートさせれば、本当に理想を統一していかねければならない。それって人の考え方や生き方の多様性の否定だよ。

自由を奪っていくことになるのは、最初から予定されているわけだね。

民主主義の限界

民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人が、民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人を、民主主義によって止めることはできない。

人の自由を政治的に奪い合うことをを正当化した人は、人の自由を奪う政府を止めることはできない。政府が人の自由を奪おうとすることは、民主主義の当然の帰結だからである。

少しでも政府が自由を奪えば、奪われた自由は歪みを残す。

「税金を使った助け合い」といって公営社会保障の税負担を強制すれば、政府はやがて全ての人が等しく健康に配慮して生きることを義務付けなければならなくなる。政府は規制を正当化する機会を得て肥大する。そして自由は大きく失われていく。

「教育機会を与えるのだ」といって教育費用の税負担を強制すれば、政府はすべての人が等しく教育の成果を社会のために還元することを義務付けなければならなくなる。政府は教育への強い介入を正当化する機会を得て肥大する。国の金で教育を受けることが誘導され、国のために尽くさなければ罰を受ける制度が作られる。そうして人々の生き方は自由を失う。

「人の稼ぎを守るのだ」といって雇用の自由を制限すれば、人々は職業経験を積む前に雇用されるだけの点数を稼ぐ競争に押し込められる。生き方を選択する機会を失い、決められた教育の中に没入する。人々は狭い競争を強いられ、自由を奪われる。

雇用のコストはずっと上昇し、製品価格は値上がりする。「事業者を守るのだ」といって自由な貿易を制限することが正当化される。肥大した政府は、国外で買えるよりはるかに高い値段で買うことを人々に強制する。

政府通貨はひたすら発行され、人々の現金資産の価値は急速に失われる。人々が現物資産を持とうとすれば破綻するから、政府は人々の取引を制限し始める。あらゆる取引を監視し、課税対象にすることで政府通貨を持つことを強制する。

人々は知っている、この仕組みが成り立っていないことを。人々が国外に出ていけば膨張した税負担を逃れることができる。本当に人々が出ていけば破綻する。だから政府は人の出入りを監視し、人々の自由をよりしっかりと制限する。

肥大した政府を支えるために収入の半分を奪われ、子孫への借金を正当化したとき、人々の自由の大部分は政府のために失われている。その時人々は政府を支えるためのみに生きることを強制される。

デモクラシーが政府を肥大させる口実を与え続けるということは、多いに反省するべきだと思う。 政府に求めるとしたら自由の邪魔をしないことであって、保護や統制ではない。それをいくら人権とか平等とか安全とか安心とか言い換えたってダメなんだよ。

 

 

果てしなく続く議会の不毛な議論

自分の時間、自分の金でやればよいことを、税金でやろうとするから無理になる。そもそも、他人の金でやるな、他人の自由を縛ってやるなという話なのだ。当然、分かるように説明しろ、果てしなく説明しろ、という話しが延々と続くことになる。本当に必要なら、必要だと感じる人が作ろうとするだろう。

そもそも、お前の金を奪って何かを買ってやると言われたら、断るのに理由はいらないはずだ。オリンピックにしろ、魚市場にしろ、教育にしろ、人助けにしろ、他人に負担を強制するなら、果てしなく、無限に、議論に応じるべきだ。それはつまり、そもそも税金でやるべきでないということだよ。

税金とはそういうものだから我慢しなさい、議会とはそういうものだから我慢しなさい、平等だから我慢しなさい、みんなで我慢しなさい、、、それは間違った前提に立っている。同意なしにセックスを強要してはいけないし、お前のカネで何かを買ってやるといって同意なしに他人の財産を奪ってはいけない。

たとえ、多数決によってそれが認められても、たとえ憲法がそれを許していても、人を殺してはいけないし、人の財産を奪ってはいけないし、人の自由を奪ってはいけない。