暴力

  • 「お前の子供は誘拐した、助けたければ金をよこせ」
  • 「お前の子供は病気だ、薬が欲しかったら金を払え」

第三者に許されることは、誘拐された子供を取り戻すことを手助けするか、病気の子供を治す手助けをすることである。

他の人から金を奪いとって困っている人に渡すことは正当化できないし、薬を持っている人から強制的にそれを奪い取ることも正当化できない。

誘拐は身体の自由を奪う行為である、金を奪い取ることは財産の自由を奪う行為である、薬を奪い取ることも財産の自由を奪う行為である。他者の自由を奪う行為はそもそも正当化できないのである。

 

 

真の民主主義は多数決にあらずというが、

真の民主主義は多数決にあらずというが、一人ひとりの意思を尊重するという立場なら、自由主義という言葉があるのだから、民主主義という言葉に執着しなくてもよいと思う。

自由主義を否定する立場から、自分に都合のよい「理想の権力」を正当化するために民主主義を信奉する人もいる。そういう人が民主制は多数決であるという以上の意味を民主制に与えるのは、論理的に無理なことだよね。

政治家や役人や民主主義が建前の押し付け合いをするのだって、理想の押し付け合いなんだよ。その建前を壊したら、別のところでつじつまが合わなくなるような理想なんだね。そもそも多様な人々が理想を共有できるなんて仮定が無理なのだから、つじつまが合わなくなるのは最初から当たり前なんだよ。

「理想の社会」を共有するためのタテマエをどんどん補強してエスカレートさせれば、本当に理想を統一していかねければならない。それって人の考え方や生き方の多様性の否定だよ。

自由を奪っていくことになるのは、最初から予定されているわけだね。

公営社会保障という助け合いの強制

 

公営社会保障は強制された助け合いである。

公営社会保障は助け合いの強制に他ならないから、それ自体が国民に健康である義務を要請する。もしも誰かが不健康を放置すれば、そのコストを他者が強制的に負担させられることになるためである。公営社会保障は、喫煙の禁止を要求するし、飲酒を禁止することを要求するし、政府が定めた食事を要求するようになる。つまり、自由を奪うことが運命づけられている。

民間の保険は、不当に高くリスクを見積もれば消費者に選ばれない。だからといってリスクを低く見積もれば高いリスクを背負うことになって、やがて破たんする。保険会社はリスクを正しく見積もることによってのみ競争に勝つことができる。一方、政府の保険は、民間の保険を選ばせないことによって成立する。政府の保険は失敗しても税金によって補填されるから、民間の保険よりも見かけの保険料は安くなるけれども、リスクを将来に残してしまう。最終的には税負担を強制されているから正味では損してしまうのである。つまり、保険としては失敗する運命にある。

医療費を「平等に」負担させると称して政府の強制力によって政府の保険への加入を強制すると、民間の保険は発達しなくなる。ある分野においては、ほとんど完全に政府が独占する。結局、政府の保険は必ず失敗し、その責任を加入者の自由を奪うことによって果たそうとする運命にある。

このような助け合いの強制によって予定される問題ついて、日本国憲法の設計者は予防の必要を認識している。例えば、憲法89条を見れば、公金の「公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業」への支出を禁じている。だが実際には、「公共の福祉」の拡大解釈によって政府の権力行使が正当化され、なし崩し的に無視されてきたのである。

日本国憲法第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

日米安保条約の内乱条項と日米地位協定

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約、いわゆる旧安保は、その第一条で内乱への言及があった。これは、内乱条項として知られる。

第一条(アメリカ軍駐留権)
日本は国内へのアメリカ軍駐留の権利を与える。駐留アメリカ軍は、極東アジアの安全に寄与するほか、直接の武力侵攻や外国からの教唆などによる日本国内の内乱などに対しても援助を与えることができる。

日本国内で内乱が起きた場合に武力介入する前提でアメリカ合衆国の軍隊が駐留するということがそもそも日米安保体制の前提だった。

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民主主義の限界

民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人が、民主主義なら他者の自由を奪ってよいと考える人を、民主主義によって止めることはできない。

人の自由を政治的に奪い合うことをを正当化した人は、人の自由を奪う政府を止めることはできない。政府が人の自由を奪おうとすることは、民主主義の当然の帰結だからである。

少しでも政府が自由を奪えば、奪われた自由は歪みを残す。

「税金を使った助け合い」といって公営社会保障の税負担を強制すれば、政府はやがて全ての人が等しく健康に配慮して生きることを義務付けなければならなくなる。政府は規制を正当化する機会を得て肥大する。そして自由は大きく失われていく。

「教育機会を与えるのだ」といって教育費用の税負担を強制すれば、政府はすべての人が等しく教育の成果を社会のために還元することを義務付けなければならなくなる。政府は教育への強い介入を正当化する機会を得て肥大する。国の金で教育を受けることが誘導され、国のために尽くさなければ罰を受ける制度が作られる。そうして人々の生き方は自由を失う。

「人の稼ぎを守るのだ」といって雇用の自由を制限すれば、人々は職業経験を積む前に雇用されるだけの点数を稼ぐ競争に押し込められる。生き方を選択する機会を失い、決められた教育の中に没入する。人々は狭い競争を強いられ、自由を奪われる。

雇用のコストはずっと上昇し、製品価格は値上がりする。「事業者を守るのだ」といって自由な貿易を制限することが正当化される。肥大した政府は、国外で買えるよりはるかに高い値段で買うことを人々に強制する。

政府通貨はひたすら発行され、人々の現金資産の価値は急速に失われる。人々が現物資産を持とうとすれば破綻するから、政府は人々の取引を制限し始める。あらゆる取引を監視し、課税対象にすることで政府通貨を持つことを強制する。

人々は知っている、この仕組みが成り立っていないことを。人々が国外に出ていけば膨張した税負担を逃れることができる。本当に人々が出ていけば破綻する。だから政府は人の出入りを監視し、人々の自由をよりしっかりと制限する。

肥大した政府を支えるために収入の半分を奪われ、子孫への借金を正当化したとき、人々の自由の大部分は政府のために失われている。その時人々は政府を支えるためのみに生きることを強制される。

デモクラシーが政府を肥大させる口実を与え続けるということは、多いに反省するべきだと思う。 政府に求めるとしたら自由の邪魔をしないことであって、保護や統制ではない。それをいくら人権とか平等とか安全とか安心とか言い換えたってダメなんだよ。

 

 

果てしなく続く議会の不毛な議論

自分の時間、自分の金でやればよいことを、税金でやろうとするから無理になる。そもそも、他人の金でやるな、他人の自由を縛ってやるなという話なのだ。当然、分かるように説明しろ、果てしなく説明しろ、という話しが延々と続くことになる。本当に必要なら、必要だと感じる人が作ろうとするだろう。

そもそも、お前の金を奪って何かを買ってやると言われたら、断るのに理由はいらないはずだ。オリンピックにしろ、魚市場にしろ、教育にしろ、人助けにしろ、他人に負担を強制するなら、果てしなく、無限に、議論に応じるべきだ。それはつまり、そもそも税金でやるべきでないということだよ。

税金とはそういうものだから我慢しなさい、議会とはそういうものだから我慢しなさい、平等だから我慢しなさい、みんなで我慢しなさい、、、それは間違った前提に立っている。同意なしにセックスを強要してはいけないし、お前のカネで何かを買ってやるといって同意なしに他人の財産を奪ってはいけない。

たとえ、多数決によってそれが認められても、たとえ憲法がそれを許していても、人を殺してはいけないし、人の財産を奪ってはいけないし、人の自由を奪ってはいけない。

ガラパゴス化と家畜化

実際、役所から仕事をもらうのも、決して楽ちんではない。

役所から仕事をもらうための熾烈な競争があるわけだ。ただし、その競争は消費者に対する競争ではない。だから、役所の方針が変わったら、いらないものになってしまう。予算の打ち切りとともに破綻する事業者は後を絶たない。この、役所に適合するための競争、それによって起こる歪んだ進化は、ガラパゴス化と揶揄されたものに他ならない。役所から良い条件で仕事をもらっている事業者、いわゆる利権は腐敗する。

生物史でとりあげられるガラパゴス諸島で起きた特異な進化は、閉鎖環境における自然淘汰の結果だ。だが、役所に適合するための進化は金魚やペットの犬猫の選別淘汰のような不自然なものである。だから、家畜化といったほうが正しい。家畜化した事業者は市場で自力で生き残ることができなくい水準まで生産性が低下する。限られた資源を、役所の条件に合わせるために食いつぶしてしまうからだ。役所から仕事をもらうための熾烈な競争は、市場での評価ではなく、予算獲得の建前や、それを押し通す助けになる縁故を作り出した者が勝ち残る。

疲弊した家畜は、より良い製品やサービスを作ることによってではなく、許されるギリギリまで建前を肥大させることによって生き残ろうとする。生き残るための競争が不正を作り出すのは、その競争が消費者を獲得するための競争ではなく、役人に認められるための競争だからである。今の日本は、納税者のカネを手に入れるための紙切れを書く競争だらけだ。大企業も中小企業も、保育園も大学も、みんな一緒である。役人に選ばれる競争ではなく、市場に選ばれる自由競争でなければ、意味がない。

腐敗した社会全体が無意味な競争に縛られ、ただすり減っていく。それは、ガラパゴスだからではなく、家畜だからである。

差別する自由

差別というのは、自由でない状態で生じるものだ。自由な状態で感じるとしたら、それは自然な恐怖とか不安というものだね。それは、本来なら少しずつ距離感を試すことで消えていくものだ。

未知のものに対する不安の程度も種類も、人によって違う。遠くで見ている人もいれば、最初から近づく人もいる。どちらが得になるかは試してみないと分からない。うまくいったらもっと近づく、怖いなら遠くから見ている。

これは、生物としてまったく必要な能力だ。もし、全ての魚が陸に上がろうとして失敗したら、そこで終わってしまう。すべての魚が海の中で満足していたら、そこで生物の進化は終わっている。自由に試せることは、生物の進化に不可欠だ。

「差別はよくない」なぜならば、得しないからだ。けれども、自由を奪うことはもっとよくない。政府の規制によって差別が解消されるわけではなく、自由な人々の試みによってこそ差別は無くなるのである。

何が怖いのか、何が不安なのかを、社会が決めてやるとか、政府が決めてやるっていうのはとても乱暴だ。一人ひとりの心の中にあるものを他人が決めることはできない。強制的に内心を封じようとしても、長期間歪んだまま、むしろ膨張する。未知のものに対して不安を感じるのは、動物として自然なことだからだ。

無理を押し通せば、内心に不安は残り、潜在的な危険に無頓着になり、政治的な利権も生じる。それこそが、差別が放置される原因そのものである。

不合理な差別は、自由な市場に置かれていれば本来なら放置されるはずの無いものだ。それが不合理であればあるほど、速やかに緩和されるはずだ。

自由な市場は、差別を駆逐する。

人を選んではならないという社会

人は皆、同質ではない。だから、人を選んではならないという信仰は、沢山の現実の軋轢を生む。理不尽な客は沢山いるし、街を歩けば乱暴な人にも出会う。だが、人を選んではならないという社会の要求にこたえるために、自分が罪人になる覚悟をするか、理不尽を受け入れるか、言い訳を考えるかを選ばなければならない。

人々は必死に、自分がいかに正しいのかをまくしたてるようになる。あるいは開き直るようになる。自分が相手を断ったのは差別ではないのだと「社会」が理解できるような説明を用意しようとする。自分の内心ではなく、社会のことを考え始める。

自由に選ぶことができないという前提を作れば、そういうことになる。多くの人が、そこに不満を感じ、恐怖を感じ、不信感を抱く。すると人々は、人は同じでなければならないと考え始める。同じになるために妥協を強いられるのは当然だと考え始める。

間違った信仰が、間違った結論を導いてしまう。

お客様は神様

取引は自由な合意に基づかなければならない。

モノを買うとは、作った人の時間を買うということ。金を払うとは自分の過去の時間を差し出すということ。相手の時間と自分の時間を合意できる割合で交換する。合意できないなら交換しない。

対等な取引は当事者同士の自由な合意によってなされる。そうでなければ奴隷だ。自由な合意を第三者が変えさせるとしたら、人の人生を強制的に奪う搾取である。

「お客様は神様」というのは客を選ばないという宣言だ。どんな人が来ても同じように扱う、客を選ばない、っていう話なのだ。人を選んではならないと信仰する社会があって、「お客様は神様です」と信仰して客を選ばない経営者がいて、「経営者は神様です」と信仰して雇用主を選ばない従業員がいる。全部同じ宗教だ。

「経営者は客を選んで追い出すべきである」と感じる従業員もいるだろうけど、そう感じるなら従業員も経営者を選んで別の雇用主を見つけるという道を考えてもよいだろう。相手を選ぶことができなっている理由があって、そこから逃れることができず、誰かが強制しているとしたら、そこにある搾取は取り除かれるべきだ。でも、誰も強制しておらず、選ぶことができるなら、自由の力を行使すればよい。

人を選ぶのは自由、それが対等であるということだよ。