国が性的マイノリティを「支援」するべきか?

「LGBTは生産性が低い」という杉田水脈議員の表現が話題になっている。まったく彼女の発言は批判されるべき性質のものだ。誰かが社会に「利益」をもたらさないからという理由で、不公平に扱われるべきではない。

そう、彼女は法の下の平等という考え方を無視したのである。

もっとも、法の下の平等という考え方が、常日頃から無視されがちであるということはちゃんと確認しておいた方が良いと思う。

たとえば、「子どもを作ることが、社会全体の利益だ」といって子育て「支援」を肯定してしまう人は少なからずいる。そういう人が同じ口で国による性的マイノリティ「支援」を非難する人を責めるとしたら、滑稽というものだ。

政治による「支援」というコトバの使い方にも問題がある。もっぱら自発的になされるものだけを支援と呼ぶべきなのであって、国が強制的に一方の国民の財産を他方へと移転することを「支援」と表現するのは、間違いのもとだ。

政府自体は、それこそまったく生産的ではない。ただ誰かの財産を誰かに強制的に移転しているに過ぎない存在だ。

 

もちろん、政治家や役人は、「支援している」と気取りたいだろうが、彼らは、ただ納税者から吸い取って、別の方向にばら撒いているに過ぎない。それを「支援」と呼ぶのはそもそもズルい。税金というものが、そもそも誰かが負担したものであるという観点をわざと隠しているのだ。

・子育て支援のために、非子育て納税者に負担させるべきである。
・LGBT支援のために、非LGBT納税者に負担させるべきである。
・〇〇支援のために、非〇〇に負担させるべきである。

と表現したうえで、強制負担させられる者の存在を許すべきなのかを丁寧に議論するべきだろう。

「誰かの生き方の価値を国家権力が評価して、別の人から強制的に財産を奪って配る」ということがまかり通っている。法の下の平等を履き違えているのは、与党だけではなく、野党の政治家も同じではないだろうか?

税金によって生き方にバイアスをかけようとすることは、一般にやってはいけないことなのではないだろうか?

 

政府認定マイノリティの問題

「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由

 

「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由

憲法は、政府が表現の自由へ干渉することを厳格に禁止している。だが、それでは弱者が守られないという人もいる。とはいえ、もちろん憲法は弱者を蹂躙するように設計されているわけではないはずだから、憲法を無視して表現の自由を制限するべきという主張にはきっと何か間違いがあるはずだ。

表現の自由を前提としながらどうして弱者の立場が守られるのだろうか? “「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由” の続きを読む

「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

『「愛されやすい人柄」というのは特殊スキルであり才能であり、それを持ってると色んな人が助けてくれるので生きていきやすい。だから、それを持ってない人でも公平に助けるのが公的扶助の役目だ。』

こういう主張をする人がいたけれども、これは深刻な誤りだ。

弱者は公的な救済に頼れという言い回しは、政治家や役人が大好きである。「多数決に認められるほど可哀想な人になって、政党の票田になるほど集団化して、権力の傘の下に入りなさい」という論理が隠れているからだ。 “「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会” の続きを読む

マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場

自由市場が少数弱者を無視するという主張は、政府のプロパガンダに過ぎなくて、市場に少数弱者を放置させるバイアスをかけているのは政府に他ならない。

「政府によって歪められた市場で少数弱者が無視される」のであって自由市場で少数弱者が無視されるというのは全くの錯誤だ。 “マイノリティを排除する政府と、マイノリティを発見する自由市場” の続きを読む

表現の自由と政府の衝突

表現の自由とは、「政府あるいは民主主義が表現を規制しないこと」。ところが、「誰もが表現を存分に行うことが望ましという態度のこと」だと書いた人がいた。これはよくある勘違い、あるいはごまかしだ。なんでこのようなごまかしが生じるのか考えてみることにした。 “表現の自由と政府の衝突” の続きを読む

政府認定マイノリティの問題

航空会社の乗客と障害を持った客のトラブルが報じられた。

本来なら、航空会社と客の間にどういう契約があって、債務不履行の有無に問題が限定されるべきだ。だが、そこから外に問題が広がった。その時点で、事情は大きく変わった。

航空会社は、事前連絡を企業側が求めているにも関わらず、そのことを利用者も知っていて意図的に無視した。その契約内容について、市場の枠を超えて「社会」が当事者の取引に干渉しようとした。

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人を選んではならないという信仰=反差別の誤り

人は皆、同質ではない。

理不尽な客は沢山いるし、街を歩けば乱暴な人にも出会う。ところが、人は皆同じであるという信仰がある。

自由に選ぶことができないという前提を作れば、人を選んではならないという社会の要求にこたえるために、自分が罪人になる覚悟をするか、理不尽を受け入れるか、言い訳を考えるかを選ばなければならなくなってしまう。

人を選んではならないという信仰は、沢山の現実の軋轢を生む。人々は必死に、自分がいかに正しいのかをまくしたてるようになる。あるいは開き直るようになる。自分が相手を断ったのは差別ではないのだと「社会」が理解できるような説明を用意しようとする。自分の内心ではなく、社会のことを考え始める。

多くの人が、そこに不満を感じ、恐怖を感じ、不信感を抱く。すると人々は、人は同じでなければならないと考え始める。同じになるために妥協を強いられるのは当然だ、自由を奪われるのは当然だ、と考え始める。

間違った信仰が、間違った結論を導いてしまう。

「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由