終戦直後に作られた国家事業としての巨大売春所,特殊慰安施設協会(RAA)

日本政府は、ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争が終結すると直ちに、特殊慰安施設協会と称する事業を国家主導で開始した。シカゴ・サン東京特派員が「世界最大の売春トラスト」と呼んだ巨大事業は、ポツダム宣言受諾直後から連合軍が上陸するまでのわずかな期間から急速に展開した。

全盛期には日本人女性7万人が売られた。この出来事は、終戦のどさくさで一部のヤクザがよからぬことを企てたという話ではない。国家の中枢にあった官民にわたる大規模な構造が、独占していた立場を利用して、国民から奪える限りのものを奪い、それを足掛かりに自らを温存し、戦後日本に強い影響を残すことになったという話なのである。

敗戦に至ってもなお国民を利用し、経済的背景と強力な連携を確保し続けた権力は時代を下って現代に至るまで国家の中心に居座り続け、しかも終戦のその瞬間にさえ暴力をふるっていた。

国家主導でなされた史上最大の売春所構築事業

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東久邇宮内閣で近衛文麿は内務大臣を務めた。太平洋戦争下で軍部中心の体制を築いた大政翼賛会の中心的存在だった。

日本政府が1945年8月14日にポツダム宣言を受諾し、4年間にわたる太平洋戦争が終戦を迎えた。

鈴木貫太郎内閣はただちに総辞職し、1945年8月17日には東久邇内閣が成立した。皇族である東久邇宮稔彦王が首相となった内閣だった。東久邇内閣が組閣するとすぐに、内務大臣の近衛文麿が警視庁総監の坂信弥に慰安所を作るよう要請した。これが特殊慰安施設協会という国家プロジェクトの始まりだった。

内閣の成立した翌8月18日には、内務省警保局長橋下政実が「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」と「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」という二つの行政通達を各県に出した。

政府は内務省を中心に拡がったネットワークをただちに動かし、慰安所の設立に向けて動きはじめた。大日本帝国の内務省は、地方行財政、警察、土木、衛生、国家神道の全てを管轄していた。

特殊慰安施設協会(RAA)の設立

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特殊慰安施設協会の資金集めに動いた大蔵官僚池田勇人。彼は、後に自民党から首相となる。

内務省の直轄だった警視庁はすぐに、花柳界の団体と正式に協議をはじめた。

ポツダム宣言の受諾から11日後の8月26日には特殊慰安施設協会(RAA)が設立された。アメリカ陸軍第8軍の最初の部隊(146名)が厚木に上陸する2日前のことだった。

資本金は1億円、その内の5500万円は、敗戦直後であるにも関わらず大蔵省の保証によって日本勧業銀行(日本勧業銀行は、後に解体され、現在のみずほ銀行などがその流れを汲んでいる)が融資した。

資金確保に動いたのは、当時大蔵官僚だった池田 勇人だった。

特殊慰安施設協会の設備建設に必要な資材や、営業に必要な生活什器、衣服、布団、そして約1200万個のコンドームを東京都と警視庁が現物提供した。東京都衛生局防疫課長は、歌人の与謝野鉄幹と晶子の間に生まれた長男である与謝野光だった。彼はGHQとの窓口として強く関与、与謝野家は平成にいたるまで政界と強く結びついた。

特殊慰安施設協会の本部は、東京歌舞伎座に置かれた。このとき、事務所を借りる名義を貸したのは日本野球連盟だった。日本野球連盟は、読売新聞社主で戦後も政界と財界で強い影響力を持つことになる正力松太郎が率いていた。

横須賀に作られた「安浦ハウス」に集まる米国将兵たち。

東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所を開設、東京・横浜をはじめ、熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった。

国家主導で、大日本帝国の保守勢力の筆頭とも言える時の政界や経済界、そしてスポーツから芸能に至る幅広い有力者達が、花柳界にざわざわと群がった。

RAA(特殊慰安施設協会)の設立に動いた勢力

戦後日本の性風俗産業は、政府主導で構築されたと言ってよく、下っ端の警察とヤクザが癒着していたなどという性質のものではない。特殊慰安施設協会は、戦前まで続いていた性風俗産業を包含する非常に広範な権力構造を、戦後へ引き継ぐ役割を果たした。

下の図は、RAA設立に動いた人々・組織の相関図である。これらの組織や人脈は、現代の私たちの生活にも大きな影響を与えている。

正力松太郎
読売新聞社主の正力松太郎は政治の道をかけあがった。岸信介政権では科学技術庁長官と公安委員会委員長を務めることになる。また、日本の原子力導入にも深く関与し、日本の原子力の父と呼ばれることになる。

内務大臣の近衛文麿は公家出身だった。東久邇宮内閣には、後に右翼のフィクサーと呼ばれることになる児玉誉士夫が内閣参謀として関与した。

警視庁長官の坂は、境の市会議員の息子として生まれ、成人後に山口県の坂仲輔の養子となったという経緯を持っていた。坂家は倒幕に関与した長州藩家老の家臣から続く藩閥の有力な家系の一つだった。

資本金集めに動いた池田は、この後政治家の道を歩み始め、60年安保を強行した岸信介内閣が総辞職した後、首相となる。

芸能と結びつくことでもう一つの軸足となった正力松太郎は、大正期におきた関東大震災後、復興院総裁だった後藤新平(NHKの前身・東京放送局の初代総裁でもある)の支援を受けて読売新聞社を買収した人物だった。

日清日露戦争以降構築された満州閥、大政翼賛体制、それを支えた表裏の有力者達や組織、戦前の人身売買や、戦中の従軍慰安婦など、一連の身売り産業の構造、それらが揃ってこの巨大事業に関与し、そのポジションを戦後日本に維持することになった。

 

特殊慰安施設協会設立をめぐる相関図特殊慰安施設協会設立をめぐる相関図(クリックで拡大)

「娯楽設備」建設への批判

戦時中高松宮の情報収集係をつとめ、終戦直後に成立した東久邇宮稔彦内閣においても無任所大臣秘書官として閣内にいた細川護貞は、戦後出版した「細川日記」(1978)の中に以下のように記録している。

八月二一日
九時、軍使の報告聴取、二時閣議。軍使に随行したる一通訳の話によれば(…中略…)彼等の軍規は極めて厳正にて、沖縄にて強姦容疑の者が、現に十年の刑に服役中なりと。又欧州上陸軍の行方不明者中、半数は強姦せるために死刑となりたる者にて、家族の不名誉を思ひ、行方不明とせるものなりと。娯楽設備につき仏当局が、米軍に申出たるところ、キツパリ断りたる例あれば、我方も斯の如きことを為すべからず、等々語れり。

政府内においても、娯楽設備建設にむけた動きは重要なテーマとなっており、これについて慎重な立場が存在したことを示唆する。

戦後へと引き継がれた性産業

終戦とほとんど同時に、最高の優先順位で特殊慰安施設協会は設立された。性産業は、日本の権力にとって非常に重要であったのである。売春や人身売買によって稼いだ勢力が存在し、売春や人身売買によって作られたカネは権力へとフィードバックされていた。

上図が示唆することは、そのような利権構造が大きく広がっていたということだ。政府は性産業を放棄することはまったく選択できず、口実を作り出して無理やりにでも性産業を復興することを何よりも優先しなければならなかった。

今でも、日本の体制は、売春・人身売買というテーマに敏感な性質を持つ。それは体制の歴史のうち、枝葉というよりむしろ、根幹だったからである。

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