古代から明治政府へと続く日本の性産業の歴史

管理売春は人身売買の一形態となりがちであり、日本では古代の奴隷制に由来する非常に長い歴史がある。

暴力によって成立した古代の奴隷制は、やがて支配者を権威化・儀式化し、信仰の対象として発達させるとともに、権威主義的な王権を成立させた。大化の改新後も、神官の権威を血縁主義によって引き継ぐことになった貴族達が姿を変えながらその構造を引き継いでいった。

奴隷交易と性産業は結びつき、さらに神道と互助関係を形成した流れが起きた。結果的に、日本では、奴隷制に由来する人身売買とその一形態である組織的売春は、古くから巫女・神社に結びついてきた。江戸時代末期には、討幕運動とも結びつき、明治以降も政府と非合法結社の癒着した構造を経済的背景として時代を下っていくことになる。

政府と性産業・人身売買の癒着構造を追えば、遊郭における年季雇用、殖産興業における女工の年季雇用、戦時中の従軍慰安婦への流れを見ることができる。近代においてもしばしば政府が干渉し、性産業や人身売買に対して独占を支援する政策をとった。

日本の貴族と古代の奴隷制

古墳時代まで政府は戦争によって獲得する奴隷制度に大きく依存していた。

最も直接的な方法、暴力によって人々の自由を奪ったのが奴隷だった。時代を下っても奴隷は無くならず、記録にしばしば現れる。自由を奪う政府、この構図は後の時代においてもまったく変わらない。そもそも、政府とはそういう性質のものなのである。

王の地位が神格化されていき、血縁によってその立場が維持されるようになっていくと、7世紀には天皇家や守部氏、中臣氏のような神官家が強大な権力を持つようになる。暴力によって手に入れた地位を、時間をかけて変質させ、権威によって正当化したのが神官の地位だ。

権威主義は自由を奪うことを前提としていたから、非効率と不合理を積み上げていった。なぜなら、自由を奪うことは、人々がより良いものを選ぶ試みを制限してしまうからだ。

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日本史に記録される最初のクーデター(大化の改新)。聖徳太子らによる改革が集結し、再び権威主義的な体制への回帰がなされた。奴隷制や人身売買は、解消されることなく温存されることになった。

奴隷制に由来する権威主義的な体制と、生産技術に立脚する実力主義の衝突が起きたのが、蘇我・物部の神仏紛争だった。

535年におきたインドネシア・クラタカウ火山の噴火は気候変動を引き起こし、結果的に曽我氏の台頭のきっかけを与えたという。

蘇我入鹿・聖徳太子によって制度化された一七条憲法や冠位十二階には、不完全とはいえ改革の実力主義的な性質が見られる。

聖徳大使らの改革から1世代経って、再び権威主義的体制を復活させたクーデターが大化の改新である。大化の改新の後、神官がその権威を復活、再び藤原氏(中臣鎌足が姓を藤原に変え、藤原鎌足を名乗った)を中心とした貴族の時代へと移った。

この体制は、権威を正当化するために日本書紀や古事記といった記紀の編纂(神官一族を日本神話に登場する神々と紐づける)、神道と仏教を習合させた貴族仏教を生み出すとともに、古代の奴隷制を温存した。

日本のセックス産業のはじまり

古事記に登場するアメノウズメノミコトのストリップ
古事記に登場するアメノウズメノミコトのストリップ

古代の日本では、巫女が信者相手に、性行為を行なっていたとも言われる。

日本神話の天の岩戸伝説に「乳は左へ右へ、上へ下へと揺れ動き、裾はめくれて女陰はあらわに見え隠れした」という描写がある。

万葉集(759年ごろ)の記述から、8世紀ごろまでには、性行為が商業化していたことが分かる。

万葉集には、遊行女婦(うかれめ)や傀儡子女(くぐつめ)、白拍子(しらびょうし)などとして遊女が描かれる。性産業と神社・仏閣の互助の関係は、このころからすでに生じている。

武家の時代のセックス産業

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源頼朝像(13-14世紀)

貴族の時代が終わり、実力主義的な武家体制へと時代は移ったとき、朝廷は弱まりながらも、その権威を維持し続けた。

神社や仏閣を通じて、人身売買や、その変形である売春は、その系譜を維持することになる。

鎌倉時代になると、武士の酒宴や陣中には必ず遊女が同席していた。武士などが宿駅通過の際に多数の遊女を集めたため、幕府はそれを管理しようとしはじめる。このころから日本の中世の公娼制度は次第に直接的な国家統制を受けるようになっていった。

12世紀までに 遊女屋主人・長者を中心に、定住した遊女の組織化がなされていく。源頼朝が征夷大将軍に任じられた翌年の1193年には、鎌倉幕府により遊君別当(ゆうくんべつとう)  という役所が設置された。売春を権力が独占しようとする様子が見られるようになる。

日本の中世のセックス産業

さらに時代を下ると、売春は権力の統制と保護を受け、徴税の対象となっていく。遊女たちは公的な遊廓に集められるようになっていき、国家の収入を確保する上でも無視できない存在となっていった。

室町時代に入ると、足利氏は、傾城局(けいせいのつぼね)という役所を作って、遊女から徴税しはじめた。豊臣秀吉が1590年に全国統一するが、秀吉はこの前後にも遊女町に許認可を与えている。遊郭は政府直轄であり、遊郭の遊女は公娼だった。売春は、政府が独占的に管理するものであって、権益の一つだったのである。

  • 1585年に、大坂三郷に遊女町を許可
  • 1589年には馬丁の原三郎左衛門・林又一郎に京都二条柳町に遊里開設を許可
  • 1596年には、京都伏見撞木町に林五郎が、秀吉の許可を得て、遊里を開業

政府の統制からはずれた非公式な遊女の集まる場所として、宿場町の飯盛旅籠(めしもり はたご)や門前町などの岡場所(おかばしょ)、茶屋街があった。公娼ではない私娼は、飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)と呼ばれた。16世紀末には「風呂屋」が現れはじめ、博多に遊里が出現、さらに博多の遊里は長崎へと進出し、南蛮人相手の遊郭となっていった。

公娼だけでなく、私娼であっても、古くから組織化され、宿や料亭、風呂屋という建前での売春業が行われていた。(現在の新地やソープランドのタテマエによく似ている。)

奴隷と公娼

やがて、遊郭は、南蛮貿易とも結びついた。

公には禁止されながらも、日本の輸出品目には常に多数の奴隷が含まれていた。南蛮貿易が始まり、火薬が輸入されるようになると、奴隷の輸出が加速した。

16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになった。1582年ローマに派遣された少年使節団の一行は、世界各地であまりに多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚いたことを報告している。

安土桃山時代には、日本の商人はフィリピンや東南アジアまで活動域を広げていた。だが、インド洋を自由に交易していたイスラム商人や後からやってきたヨーロッパ人と比べれば、ビジネスの規模はずっと小さいままだった。

戦国の混乱が終わり、社会情勢が安定になった江戸時代、幕府は実質的に収量の40%、他のアジア諸国と比べて格段に高い年貢を納めさせていた。それでも国外に輸出できたわけではなかった。

秀吉に遊里開設を許された林又一郎は、戦国浪人で、はじめ秀吉の馬廻りとして仕えていた人物だった。彼は秀吉の没後、寛文年間に大坂の新町遊廓に妓楼・扇屋を開くと、京都の花柳だけでなく、大阪にも遊女をかかえ、後に東京の吉原にも遊郭を構えるようになる。この扇屋は以後この又一郎の子孫代々がその経営にあたって幕末まで続いた。

鎖国の中で権力に閉じ込められたセックス産業

日本の商人は、国外から付加価値のあるものを輸入し、日本国内で売りさばき、代価として、古くは、銀や銅、工芸品、さもなくば人間そのものを輸出していた。後に生糸や茶が輸出されるようになり、昆布や海苔といった海草類などが輸出されるようになっていくが、やはり奴隷は重要な交易品目だった。

江戸時代、幕府は人身売買を禁止する一方で、年貢上納のための娘の身売りを認めた。性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立していく。

日本の人身売買は、国家の権益でなければならなかった。我が子を売って生活を立て直すことを許さないといいながら、我が子を権力のために差し出すことを強いたのである。幕府の監視の外で奴隷を売って財を成すことを禁じる一方で、幕府に年貢を納めさせるための身売りをさせたのである。

遊郭の年季雇用と奴隷制

幕府は、諸大名が突然力を蓄え強大化しないようにさまざまな工夫を凝らして、鎖国を維持した。けれども江戸時代末期には薩長などの幕府の厳しい統制の網を逃れて資本を蓄積した一部の勢力が、英国資本との関係を深め、ついに江戸幕府を打倒していく。

彼らは倒幕を達成すると、そのまま藩閥として明治維新以降の最大勢力を構成することになった。人身売買・性産業の系譜は、政府の独占から解放されただろうか?

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19世紀後半、斡旋業者によりシンガポール、中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地へと輸出された「からゆきさん」。特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。 遠くシベリア、満州、ハワイ、北米、アフリカに売られた日本人女性の例もある。

そんなことはない、人身売買とセックス産業は、明治体制とより強く結びついた。

性産業は長い間神社と強く結びついていた。これらは討幕運動において反体制勢力の一角を担っていたから、明治政府はもちろん既存の性産業の独占を権力によって保護したのである。

明治期に入ると、それまで日本で一般的だった夜這いの風習が廃れていく。政府の性産業保護と税収確保の意図が、経済に寄与しない夜這いという文化と競合したためとする研究もある。

明治体制とセックス産業の関係は国際問題にも発展した。明治維新から5年目の1872年にペルー船の中国人船員の使役が問題となったマリア・ルス事件が起きると、逆に日本政府が国際司法裁判の被告となり、ペルー政府から遊女の人身売買を奴隷の強制であると糾弾され、謝罪と損害賠償を要求される事態に至る。これが、日本がはじめて国際司法裁判の被告となったケースとなった。

日本国内で一般化してしまっていた年季雇用は、国際的には人身売買であり奴隷売買の延長にあるものとみなされた。政府は娼妓解放令を出すなど、幾度か人身売買に関する禁令を出し、都合よく遊郭へと干渉したが、性産業を規制するためというより、むしろ権力に取り込むために運用したから、管理売春のための人身売買自体は温存された。

結局、人身売買的な芸娼妓契約や、養子に仮装した人身売買契約などの形で古い慣行が続けられ、ついに年季雇用が公序良俗に反するとの判決が裁判所からでたのは、戦後になってからだ。

殖産興業や官約移民へと姿を変えた人身売買

日本の殖産興業は、政策に誘導される形で製糸・紡績業を拡大し、財閥が発達した。その背景にも人身売買に由来する労働力の供給があった。

明治時代中期以降には工場制手工業に女性労働力を振り向ける形で人身売買が姿を変えた。農村の年少女子が、わずかの前借金によって奴隷的状態に置かれ搾取される一方で、もっとよい選択肢を見つけることができなかった。彼らが身体を売って良いのは政府の政策のためにそうする場合に制限されていた。そして、そこには搾取が待っていた。

過酷な労働・生活条件のため、結核などで病死する女工が続出。このような状態の女子・年少労働者を保護するため、1911年工場法が制定されたが、やはり積極的な運用はなされなかった。

第一次世界大戦前後には、海外プランテーションへの移民という形で、日本から労働力が輸出された。官約移民では、「3年間で400円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われた。その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近く、長時間の強制労働が行なわれた。

那覇城400年前から続く、日本による沖縄植民地支配の歴史

明治体制下で、薩摩の支配下にあった琉球王国が大日本帝国の支配へと組み替えられたとき、沖縄は重要な海外プランテーションへの移民供給地の一つとなった。

従軍慰安婦と戦後へと続く性産業

ianjoもともと人身売買や性産業は日本の国家体制に深く根ざしたものだった。

太平洋戦争中には従軍慰安婦が政府主導のものか人身売買であるかといった議論がなされるが、そもそも日本では政府と「民間」の人身売買は一体となっていた。

太平洋戦争が終わるとすぐに、政府は「特殊慰安施設協会」の設立を主導し、連合軍のための売春施設が構築された。結局、この構造は解体されることなく、戦後の日本の体制にも深く組み込まれていくことになる。

 

終戦直後に作られた国家事業としての巨大売春所,特殊慰安施設協会(RAA)

終戦直後、国家主導で作られた風俗産業

労働基準法って違憲じゃないの?

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