国家の起こしたテロ事件『菅生事件』と破防法の成立

日本には警察が組織的にテロ事件を行った歴史がある。

共産党員が容疑者とされた菅生事件という駐在所爆破事件がおきたのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年のことだった。この事件は当初、共産党員による犯行とされた。この事件は、一か月後の破壊活動防止法成立を後押しすることになったのみならず、講和と同時に結んだ日米安保条約(内乱鎮圧条項を含んでいた)を正当化する口実として用いられた。

「主権回復」がさかんに宣伝された講和条約だったが、当初から権力固定のために政府による不正な操作が用いられていた。体裁として独立したとしても主権が回復したかどうかとは区別して考えなければならない。

菅生事件も、乱暴な不正操作の一つとして挙げることができる。警察・政府による自演テロ事件が、政治的な対立勢力を削ぐために利用されたのである。犯人を擁する政党として名指しされた共産党は、それまで35議席あった共産党は直後の選挙では全議席を失った。選挙結果に大きなインパクト与えた後になって、法廷では被疑者の冤罪が立証され、さらに、警察当局によるでっちあげが立証された。

菅生事件の背景

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ヨーロッパでは、ギリシャで内戦がはじまった。ここでもやはり、自主独立を目指す社会主義者と米国の方針は衝突していた。1947年、トルーマン大統領は共産主義封じ込め政策を発表した(トルーマンドクトリン)。共産主義のみならず各国にあった外国資本への従属からの脱却を望む声、民族自決を目指す声、労働運動など米国資本に都合の悪い社会運動はことごとく反共の名のもとに合法・非合法の攻撃を受けることになる。

1940年代末、占領下で日本に親米政権を構築し、その持続可能性を確保することは米国政府の東アジア戦略において重要だった。ところが、米国の東アジア政策は不調だった。

中国では国共内戦における共産党の勝利がほぼ確実となっていたし、米国は朝鮮半島でも信託統治の終了後に予定していた選挙に備えることができていなかった。

朝鮮半島では、米国政府は親米政権を樹立するため暴力的に南朝鮮を切り離し、韓国の分離独立を強行する政策をとっていた。「独立」した韓国では、米国追従政策に反対する活動家の弾圧が行われ、朝鮮半島では38度線をはさんで軍事的緊張が高まった。

米国政府の介入は、中国や韓国やベトナムだけにむけられたわけではなかった。日本も対象の一つだった。1950年、日本人の戦争の記憶の消えぬ間に、国会承認を経ない朝鮮戦争への掃海艇派遣と日本人の犠牲が明らかになった。日本の再軍備政策が進められる中、日本国内の世論は左派政党支持へと動いた。

事実上、GHQへの窓口となっていた吉田内閣は、右派の強化と左派の弱体化を意図した露骨な政策を重ねた。左派政党へ支持が集まるにつれて、政府の対抗措置も乱暴なものになっていった。その乱暴な手段は、米軍の内乱鎮圧能力を前提としていた。つまり、米国政府による保護なしでできたものではなかった。

菅生事件

1949年の公務員・国鉄職員の大量人員整理以降、その手段は過激なものとなり、労組側もこれと強く対立した。同時期に起きた国鉄3大ミステリー事件は謀略説が指摘される。政府の手段が過激になるほど、左派政党は支持を集めた。これは、政府にとって脅威だった。

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菅生事件公判で冤罪被害者となった被告ら

サンフランシスコ講和条約の発効直後の1952年6月2日、豪雨の中で大分県菅生村の駐在所が何者かに爆破された。数十名の警察官が、駐在所近くを歩いていた二人の男を押し倒し、殴るけるの暴行をして逮捕した。

この乱闘が起きたとき、あらかじめ待機していた新聞社のカメラマンはフラッシュをたいた。二人の容疑者はあらかじめ用意されていた護送車に乗せられ、大分警察署に送られた。

翌日の新聞には「菅生村で日共武装蜂起」、「県警、日共軍事組織を一斉検挙」との見出しが並んだ。大分警察署には、他に三名の容疑者が拘束されていた。被告人全員が事件との関係を否定したにも関わらず、一審大分地方裁判所で全員有罪となった。

弁護団や報道機関の調査によって、事件に関わったとされる警官の存在が明らかとなり、法廷で警察の組織的関与が立証され、被告人全員が二審で無罪となった。

真犯人だった戸高高徳は、カンパを渡すといって共産党員二人を駐在所付近に呼び出し、直後に何者かが駐在所を爆破していた。戸高は上司の命令でダイナマイトを運んだことを認めた。警察組織を用いたテロのねつ造だったのである。彼は事件関与によって起訴、有罪となったが、刑を免除されてわずか3ヶ月後に警察官に復職した。

直前に頻発したその他の公安事件

1952年には共産党が関与したと当局が主張した公安事件が頻発した。

菅生事件までに白鳥事件(1月21日)、青梅事件(2月19日)、辰野事件(4月30日)が発生していた。その全てにおいて冤罪が疑われており、少なくとも三つで共産党員が無罪判決を得ている。国は、自作自演のテロを行った。左派が乱暴であった事実もあるが、同時に政府も相当に乱暴だった。

いずれも、日本の主権回復を控えた中で、共産党の勢力を削ぐ目的で政府によって行なわれたでっちあげである可能性が指摘されている。

白鳥事件 (1952年1月21日)
 札幌市共産党による白鳥警部射殺事件、警察は証拠とされる弾丸をでっちあげたとされる。
青梅事件 (1952年2月19日)
 列車暴走・貨車自然流出・衝突事故、共産党活動家10名を逮捕。被告全員に有罪判決が下ったものの、その後国鉄の事件記録が発見されたり、有罪の決め手となった自白が拷問によるものと判明。1966年に最高裁判所は審理を東京高等裁判所に差し戻し、2年後の1968年に被告全員の無罪が確定した。
辰野事件(1952年4月29日)
 長野県辰野町の警察署・交番5個所を、警察自身が火炎ビン・ダイナマイトで爆破。解雇反対闘争中の共産党員がやったと13人を逮捕。
菅生事件(1952年6月2日)
 警察駐在所の爆破事件。警察による組織的な自演テロであったことが法廷で立証された。
芦別事件(1952年7月29日)
 北海道芦別市において、鉄道爆破が発生。共産党がやったとして逮捕。

国家による暴力の独占

菅生事件から一か月後の7月21日、メディアによる報道を後押しに破壊活動防止法は国会を通過した。政府は、対立政党の監視・取り調べ・取り締まりを正当化する破壊活動防止法を成立させたのである。その背景には、公的機関によるテロ行為まであった。また、同年4月28日、米軍による「内乱鎮圧」を定めるいわゆる内乱条項を含む日米安保条約(旧安保)が発効していた。

この事件の影響で、国会内の左派政党の構図は大きく変化した。最左派であった共産党は議席を失った。同様に、1960年の社会党分裂においても、米国CIAによる秘密資金供与が社会党右派になされていたことが後に米国の公文書から明らかになっている。こうして作られた親米保守勢力は政党利権を占有し、連鎖的に体制を強化していくことになる。政党の構図そのものに政府や外国政府の介入があった事実は無視できない痕跡を日本の議会政党に残した。

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