公教育が包摂できない多様性

左利きに書き順を強いることを何十年もやめられない公教育に求めることができる「多様性」ってなんだろうか?

公教育が民主主義の多数決で選ばれる政府の下にある限り、せいぜい多数の大人が共感する範囲だけの多様性しか気にしない。

ぼんやりした大人が気づかないけれど子供でも分かるような差異を公教育があまりにもたくさん無視している、 という事実を無視したら、学校のいじめなんて無くなるはずがないと思う。

こういう特長の子供もいるんだ、じゃぁ別の学校を作ってみよう。ということをできないようにしているのが公教育だ。

人と違う特徴の子供もいると発見しても、多数を説得しないと対応することができない。そういう制限を作り出しているものこそ公教育に他ならない。

何かに気づいた人だけで始めることを許さない。だから、公教育は本質的に多様性を包摂できないのである。

「ごめん、公教育は合わないから授業料返して」って言えない。 だから、代替の選択肢を選べるのは金持ちだけになってしまう。それが塾だったり私立の学校だったりするわけだ。人間が多様だという視点に立つと、公教育はまったく不公平だ。

合わない教育を強いられる人にとって、仮に格安だと言われてもお金返してくれたほうがマシである。 (しかも、実際の税負担を考えればまったく安くもない。)

公教育があらゆる多様な子供たちを包摂できない以上、お金返してくれたらもっとよいものを買える可能性がある。

公教育は、なぜ部活動を強制したのか?

公務員はなんで間抜けな業務を放置するのか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。