分業コストを上昇させる政策の症状

(恵方巻とか、バレンタインのチョコレートとか、クリスマスケーキとか……なぜ楽しいはずのものが、楽しいと感じられなくなるのだろう。)

租税や許認可や規制・優遇といった政府の介入で分業のコストが上昇するほど、大企業によるコンビニみたいな画一的な経営に集約し、人々はそこにある画一的な商品に群がり、演出される意味の薄いブームに振り回され、虚しさを表明するようになる。

プライベートブランドの違和感

プライベートブランドと称するマスプロダクトって矛盾感がある。

いや、たしかに私企業のブランドなのだから字義的にはそのまま正しいし、大量生産するほうが安いから大量生産するでよい。だが、それでも何か違和感があるのはなぜだろう。

「ブランド」というのは本来、他者の作った製品と差別化するために革製品などにつけた焼き印のことである。ところで、ちまたの「プライベートブランド」製品は、何を差別化しているのだろうか?

あぁ、確かに値段が安いという特徴がある。でも何か変だ。というのも、すでに流通している製品をより大量販売に向くようにアレンジしてパッケージ詰めしたものばかりなのである。

その「ブランド」に特色を期待して買っているというより、単にそれじゃないと(高くて)買えないので(目立つ特徴を殺して)安く画一的に作られた大量生産品を買っているばかりだ。

そういうものが存在することはよいとしても、そういうものばかりが増えていくとしたら不自然である。

自由な市場では多様性を無視できない

本来なら、人々は自分の生活スタイルにあった特色ある製品を自由に選べた方が幸せに感じるだろうし、マイナーな要求が社会に隠れていれば、新しい製品を開発する動機を作り出す。効率化は必ずしも均質化を意味しない。

技術発展によって一時的に大量生産が安上がりになるとしても、市場の需要はすぐに満たされてしまう。だから、その次の段階ではすぐに多様な製品が生み出されるようになる。(そしてそれも安くなっていく、政府が既得権を保護してデフレを邪魔したりしなければ。)

自由な市場では多様性を無視してはいられない。マイナーな課題を発掘して、解決せずにはいられないはずなのだ。

ところが政府によって自由な交換が妨げられていると、事情が変わってしまう。制度の強制によって生じる不自然な歪みが拡大してはっきりと目立つようになっても、市場の誰も解決しようとしないのである。

解決できない社会

自分が解決しようとするわけでもないのに、他人が問題を解決しないことに苛立つのはなぜだろう?目の前にあるものがムダだと感じ、これは他にもっと役に立つだろうって感じているのに、なんでそこにマイナスの感情しか沸いてこないのだろうか?

政府の介入で分業のコストが上昇するほど、大きなものにぶらさがるしかなくなって、自分の気づいた目の前の課題の解決に自分が関与する見込みが減っていく。自由を失うことの意味に気づかないまま、不平不満を吐露するしかできない状態を経験する。

政府の介入で分業のコストが上昇していなければ、目の前の課題を自分で解決できる見込みもあって、それはビジネスチャンスだったはずだ。商売人であれば、不平不満なんて感じる前に、 お金を稼げる可能性を発見して大喜びしているはずなのである。

大学の研究者みたいな人たちだって、芸術家だって、未解決の課題があったら普通は嘆くのではなく喜ぶのではないか? ……ところが、そんな人たちでさえ、不平不満を喚いているばかりだ。横並びに嘆いてる人たちを見て、おかしいと感じないのだろうか?

(おかしいと感じないから、政府の介入を減らして強制による歪みを除去すればよいのに、政治による解決を要求して政府のさらなる介入を積極的に容認するのだろう。)

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