公教育は、なぜ部活動を強制したのか?

公教育における部活動の在り方が議論されている。

公教育は、なぜ部活動を強制したのか?
もし部活動を廃止したら、何が起きるだろうか?

自由になると困ってしまう公教育

部活動を廃止すると、生徒たちの自由な時間が大幅に増える。一週間あたり、10時間とか20時間といった大きな自由が解放されることになるだろう。

実力のある生徒であれば、自分で新しいテーマを見つけて取り組み始めるだろうし、経済的余裕がある家庭ならばお金を払って教育を買おうとするかもしれない。いずれにしろ、公教育以外で学ぶ機会を見つけはじめることになるだろう。

もちろん、それは素晴らしいことであって、何ら悪いことではない。邪魔されてできなかったことができるようになって多様化するだけだ。

けれども、そこに生じるものが「格差」と呼ばれて激しい抵抗に合うだろうことは容易に想像できる。そうして生じた「格差」を是正するためにはどうしたらよいだろうか?

それが経済的なものであるなら、良い教育を金で買おうとする者から徴税して、画一的な教育をする機関に分配すればよい。つまり、それが公教育である。

それが能力的なものであるなら、学校がメニューを作ってそこから選ぶことを強制すればよい。つまり、それが部活動である。

邪魔されてできなかったことができるようになったら格差が生じるから、それを邪魔してできなくしてしまえば平等になる……と循環する。

公教育は自動的に強制が発達する

そもそも強制的に頭を抑える教育こそ、公教育の本質である。

公教育は教育の多様性の強制力による否定という無理を政府の強制力によって具現化しているものだから、当然そこには強制が発達する。

「それはまだ習っていないから」という理不尽な理由でテストでバツをつけられたという話がいくらでも見つかるように、公教育は学校教育より先に生徒が勝手に学ぶことに対して、とても非効率な方法で抵抗する。

そのような抵抗のうち拒否しづらいものが選択されて発達したものこそ、「部活動」や「強制ボランティア」である。しかも、単に拒否しづらいというだけでは強制することが無理だったとき、内申書のようなもっと強く縛る仕組みまで編み出したわけだ。時代を下って潜在的な学びの選択肢が増えれば増えるほど、公教育による強制は強まった。

公教育から部活動を廃止したら、何が起きるだろうか?

公教育にあれもこれもと発達した強制を廃止してしまえば、そこに残るのは、「子どもたちや子どもたちの置かれている環境の多様性を無視して画一的な教育を高い税金を負担させて維持する仕組み」だ。そんなものは誰も欲しいと思ってくれないから、強制的に時間を拘束したのである。それが、公教育が部活動を強制した理由だろう。

自ずと公教育に存在意義がないばかりか有害であることを暴露してしまう強制の廃止を求めながら、公教育の存続を前提として議論されているのは奇天烈である。

もし部活動を廃止したら、公教育が不要とみなされて廃止されるだろう。そうでないとすれば(こちらの方が可能性は高そうだ)、部活動に匹敵する無理の強制によって辻褄合わせがなされるだろう。

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