「公共事業は儲からなくてよい」という間違い

公共事業の民営化が話題になると、こんな声も聞こえてくる。

『「老朽化で維持コストが今後膨らむ」ようなものを民間に任せれば上手くいくはずがない。普通は維持コストが膨らんで利益が出せないような事業だからこそ公共が負担するんじゃないのか?』

でも、普通って何だろうか?

普通は、将来の更新のための費用まで含めて採算性を見込んで運用し、しかるべく利益を積んでいるものである。それが、公共事業だから、無責任にもそうしてこなかったというだけではないだろうか。そんな無責任がまかり通ったのは、単に政府が負担を納税者に強制するといったからに過ぎない。

そう、「儲からなくてもよい」というのは、そもそも無責任な話なのである。納税者が実際に更新費用を払えるかどうかなんて、検討されたこともない。インフラの老朽化は、健康保険や介護保険の失敗や、年金制度の老朽化教育の老朽化原子力発電所の老朽化と同様に、「国家権力に頼る」という巨大な無責任の結果である。それが結果である以上、いまさらなかったことにできるような性質のものではない。

前の世代は、将来に借金して国債を積み上げて、豪華なインフラを作って、費消しただけで、利益なんてなくて、後に何も積み立てていない。これも、「公共」が作り出した巨大な世代間格差である。若い人たちは、「団塊の世代はよかったよね」っていうしかない。死ぬまで高い税負担に耐えきるか、さもなくばインフラの更新すらままならない状態になるか、という状況が目の前に予定されている。

「財政が破綻しない」ってそういうことだ。政府が白旗をあげないということではない。納税者に白旗を揚げさせないということなのである。

既得権は作られるときは簡単に作られるが、壊す時は膨大なエネルギーを必要とする。何が余計で、何が余計でないか、民主主義で議論しているだけの余裕があるだろうか?無駄を削ると言っても、そこに生きている人がいるものを簡単に削れるだろうか?でもそんなこと言っていて、人々は耐えられるだろうか?

耐えられるか耐えられないかの問題になったとき、政府の強制力はやっぱり暴力だったと気づくしかない。

公営事業の民営化のあるべきかたち

市場における「価格」の機能

無責任で危険な公共事業

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