安心・安全のための費用の経済的合理性が行方不明になる理由

日本人はなんでもかんでもリスクがないことを求めすぎる!

そう、リスクに対する対策に経済的な合理性があるのか、ちゃんと検証していないように見えるのだ。とはいえ、あらゆるものが過剰に安全とも言い難い。平時には安全のためと称して時に無意味なほど大きなコストが投じられる一方で、本質的にはリスクが放置されたまま事故が起き、膨大な費用を納税者が負担するという間抜けな話を私たちはいくつも知っている。

誰もが楽に暮らしているわけではない。安全や安心に費用をかけるにしても、無尽蔵に費用をかけてよいはずはないことは明らかである。だからといって取り返しのつかない事故を起こしてはならない。

いったいどうやったら、安全対策の経済的合理性は判断できるのだろうか?

市場経済は、リスクを価格に織り込むことによって、責任を負える人に合理的に責任を負わせる仕組みを持っている。

例えば、資本で裏付けられた保険会社がリスクを価格に織り込み、消費者は安全のコストが乗った価格で製品を買う。問題が起きたら、保険会社が費用を負担する。

消費者は、割高だから買わないで別のものにお金を使うとか、あるいはその逆の判断を自由にすることによって、たしかに安全のためのコストを負担するか負担しないかを選択しているのである。

個々の消費者が製品の持つ危険性を正しく評価できないとしても、保険会社を通じて正しくリスクを価格に上乗せすることにとによって、結果的に経済的に合理的な選択をしているのである。

保険会社の判断が間違っていたとしても、保険会社の資本によって責任が取られることになる。リスクを過大評価する保険会社は、そもそも消費者に選択されず、リスクを過小評価する保険会社も投資家から評価されない。合理的な判断のできない保険会社は競争力を失い、正しくリスクを評価する保険会社が生き残ることになる。

保険会社が関与しないとしても、事業のリスクはその事業に出資する投資家や、その企業に融資する銀行などの債権者によって評価され、価格に織り込まれていくだろう。リスクは価格に織り込まれることによって経済的合理性が評価できるようになり、責任が果たされる。

自由競争の下で事業を行う企業は、リスクが少ないことを投資家や銀行や保険会社に対して説明しなければならない。そうでなければ事業を始めることができない。一方、投資家や銀行や保険会社は存在するリスクを一生懸命見つけ出さなければ損してしまう。もちろん、事業者は発見されたリスクを減らしていかないと競争力を維持することができない。

私たちは、値札のついた商品を買うか買わないか選ぶだけでよい。市場における「価格」は、いつの間にか、責任の所在を確定し、リスクを評価するために投資させ、リスクを発見させ、リスクを解消させていく仕組みをそもそも持っているのである。

市場における「価格」の機能

私たちが安全対策の合理的な選択をするには、リスクを正しく織り込むことに失敗した事業がちゃんと市場から消えていくことが必要である。

だが、市場経済とは別のところで物事を決定した場合には、どうなるだろうか?例えば、消費者が自発的にサービスを買うのではなく、政府が税金を使って公営の事業を行うと決定してしまった場合である。

そうなると、そもそもリスクが価格に織り込まれる機会が存在しない。公営事業は、国家が潰れるか、政府がやめると決断するまで、存続するからである。

そんなとき、どうやってリスクを判断しているのだろうか?

私たちは民主主義の多数決によって、公的事業を行うかどうかを判断している(ことになっている)。有権者が頭の中で想像をめぐらし、リスクが高いか低いかを判断し、投票箱に紙切れを放り込むことで、経済的合理性を判断できる(ということになっている)のである。そして、選ばれた政府が決定した方針を受け入れ(させられ)る。

実際には、単一のテーマについての投票は行われないから、たかだか政党がバスケットに放り込んだ政策の山の片隅に雑然と公営事業のリスクというテーマが放り込まれている。私たちは、リスクもコストも有耶無耶なまま、政府の役人にお任せすることになる場合が多い。

だが、もっとそれ以前に問題がある。

仮に事業の可否を選択する機会が有権者にちゃんと与えられていたとしても、税金の投入される公営事業や半公営事業におけるリスク管理について経済的な合理性を判断することはそもそも不可能だ。公営事業の費用には、市場経済の中で自由に選択される場合とは違って、リスクが織り込まれる過程がそもそもどこにもないからである。

納税者がみんなで責任を負うことにして政府が事業を始める場合、私たち(または政府の役人)は、潜在的なリスクが幾らなのかを見積もることなく、試験で鉛筆を転がして当てずっぽうで答えを選ぶように「えいっ」と判断しているに過ぎない。

誰にもできるはずのない判断を役人に任せても、判断できないのは同じである。役人はリスクをいくらと見積もったらよいのか知ることができないのに、なにかを計算をしたフリをするだろう。だが実態は、ぼんやりした仮定(彼らはそれをしばしばエビデンスとか言いやがる!)と、いくつものタテマエを並べて描きだしたファンタジーでしかない。大人達は、判断できないものを、無理やり判断しろといったり、判断したふりをしたりしているだけなのである。

「日本人はなんでもかんでもリスクがないことを求めすぎる!」というのは、政府の関与しない領域が拡大し、自由な市場がほとんど失われた結果だ。政府のかかわる事業では、安心・安全の経済的な合理性がいつも行方不明だ。

公営事業ばかりではない。民間企業が事業を行う場合でさえ、失敗しても会社がつぶれないように政府がバックアップしていたり、補助金や助成金によって運転資金を嵩上げしてしまったりする。それではもちろん、リスクが価格に正しく織り込まれない。

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