自由市場と計画経済

人は一人で生きることもできる。

野山を走りまわって動物を狩り、木の実を拾い、海に出ては魚を釣り、畑を作って耕すこともできる。自分自身の力で自然から手に入れた財によって生活することができる。

もちろん、このような生活はとても効率が悪い。人生の多くを、衣食住を獲得するために費やさなければならないし、それだけでなく、飢餓に陥ったり、凍え死ぬリスクも高い。子孫を作ろうと思えば、同じような生活をしている人とばったり出会う運命に恵まれなければならない。

効率の悪さは、弱者を生かし続けることができない。体力と知性と運とに恵まれた者だけが生き残り、全てを作り出すことができる者だけが生き残り、そうでない者の命を奪う。

人は、他人と手に入れた財産を交換したり、自らの労力と他者の財産や労力を交換したりする。これが、取引である。互いの持っている商品を自由に交換することで生じるのが経済だ。

自由な取引は、双方が望む場合にだけ成立し、いつでも断ることができる。取引が成立するのは双方が交換によって得すると考える場合だけである。だから、取引はいつでも互いをより幸せな状態にする。そうでなかったら、そもそも成立しない。

自由な交換によって経済は発達し、人々はより効率よく必要な財物を手に入れることができるようになる。狩猟が得意であれば狩猟に集中することができ、農業に適した土地を持っているなら農作物の生産に集中することができる。人は万能でなくてもよくなるから、多くの人が生きられるようになる。

経済が発達すると分業が発達する。人々は多様な産物やサービスを交換するようになる。こうして生じるのが市場である。市場において供給過剰の産物は、交換比率が小さくなる。つまり、価格が安くなる。

市場において供給不足の産物は価格が高くなる。人々は、自ずと価格の高いものを生産する動機と、生産性を向上する動機を持つ。

市場は供給の過不足を発見して、価格としてフィードバックし、需給のギャップを埋める装置として機能する。

人々の欲求が多様で複雑であったとしても、市場の成熟は人々の生産性を向上し、経済をより豊かなものに変えていく。これが、資本主義である。

相手の持っている財物を強制的に奪ったり、相手に何かを強要するのれあれば、それは暴力である。強制力は自由な交換によって経済が発達することを邪魔してしまう。

権力によって行われる強制は、政治と呼ばれる。政府はしばしば、強制的に集めた税金を分配することで経済を計画しようとする。しかし、計画はいつも失敗して市場のメカニズムを殺してしまう。なぜそのような失敗が起きるのかというと、誰も全ての人の多様で複雑な欲求を完全に把握することができないからだ。

自由な市場であれば、原理的に過不足が発見され、自然に正しい方向に修正されていく。だが、政府は人々の欲求を正しく測定する方法を持たない。だから、自由な市場の発達を阻害し、供給過剰と供給不足がいつまでも放置される。政府は、非効率を人々に強いることによって、本来なら手に入ったはずの豊かさが失われてしまう。

強制は市場のメカニズムを殺してしまうから、供給不足や供給過剰がいつまでも放置されたままになる。暴力が否定されるべきなのは、人々の分業を邪魔し、人々の自由な交換を邪魔し、経済を後退させてしまうからである。

ここで、強制力は合法か非合法かとはまったく関係ない。経済を計画して強制力によって実施することは、原理的に不可能なのである。

計画経済を最もあからさまに実施したのが、ソビエト連邦などの共産主義国家だった。ソ連は計画経済に失敗し、予定された崩壊を経験した。だが、共産主義国家という看板を掲げていなくても、全ての政府は市場への介入や人々の自由の制限を正当化する。

政府の企ては、一時的に、表面的には成功したかのように見えることもある。けれどもいつも失敗し、やがて返すことのできないツケを積み上げるようになる。にっちもさっちもいかなくなった政府は、人々の自由をより強く制限してごまかそうとしたり、あるいは国外からの脅威によって自らを正当化する。

さらに自体が悪化すると、戦争を望むようになる。

 

 

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