憲法9条はもっとシンプルでよい

国防は経済の外部性が高い公共財なので、自分の隣人の安全も不可避的に保障してくれる。だから、国家が国防の面倒を見るべきであるという考え方がある。

だが、強制的にみんなが直接負担する必要なんてなくて、費用を織り込んで市場に送り出せる人がそうすればよいという話だ。メリットがあるなら、仮にインフラや家賃が割高でもそこに住むことを選ぶだろうし、メリットがない人は単に選ばないだろう。守られたい人は、タダ乗りするわけではなく、費用の転嫁されたものを望んで購入するのである。

前提となるリスクが人によって違うのに、一律に同じ傘の下に入ることを強制するべきか?という問題だ。 財産を守るほうが割安ならカネを払って警備するだろうし、財産を逃がす方が割安なら自分が安全な土地に動くだろう。

国が守ってくれなくていいと言ってる人を説得しながら守ろうとするからややこしい話になる。しかも、説得を放棄して社会福祉予算という餌を与えたりするからさらに複雑になる。

国家によって強制的に負担させられたサービスを与えられることによって土地に縛られる前提では、逃げることもままならなくなる。 財産を税として奪われて手元から失うだけでなく、将来の負担を前提としたサービスの供給に依存させられるからである。

国防を維持するためのカードとして、さまざまなサービスの提供を政府は約束してしまい、そのほとんどが経済的非効率を肥大させてしまう。結局、国防のために政府を飼うのは、金持ちにとっても貧乏人にとっても割高なのである。

それでもならず者国家から守るためには、国家を前提しないと無理だ、とする考え方もある。だが、国土を殲滅したら報復や弁済を免れるという前提を作るのは、それこそが危険なことだ。

国家間の戦争というのは、無関係な被害者を巻き込んでも賠償しないで、国ごと押し倒せば支配できるという前提があるから大量破壊兵器が発達する。 そもそも国に支配されている人を支配し直すという前提だから、実際そうなるのである。

人々が国家に従属しておらず、戦争が民間に所属するものだとという前提では、誤爆や巻き込みのコストが無視されなくなるだろう。誰かをゆするために、別の取引相手もいるところに大量破壊兵器をぶちこむというのは、そもそも馬鹿げた話だ。 そういう戦争は、国家間を前提としないと意味をなさないのである。そして、冷戦を駆動した巨大公共事業である核兵器は、決して割安の兵器とはみなされないだろう。

そう、平和を維持するためには、国家による戦争を否定すれば十分だ。憲法9条は、もっとシンプルに解釈すればよい、
「国の交戦権は、これを認めない。やりたければ、自分でやれ。」

反共を口実とした共産化

 

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