ヤマカガシの血清の話

政府のさまざまな形の干渉は、本来なら行われるはずの研究開発が進まないという事態も作り出す。

ヤマカガシの血清は、1980年代に科研費(科学研究費補助金)によって作られたものであるという。科研費は大学に所属する研究者などが依存している政府の科学研究予算の配分の一つ。審査は文部科学省の外郭団体である日本学術振興会が行い、研究者らは毎年申請書類を書き、獲得競争を行っている。

一部の研究者は、科研費のような当たりはずれのある予算ではなく、もっと直接的に国がヤマカガシの血清の開発に関与し、予算を割り当てるべきだったと主張する。

だがどうだろう?本来なら命のかかっている毒蛇の血清の開発で利益をだせないはずがない。製薬会社は高値で売ってよければ作るし、割高だとしても保険会社は積極的にカバーしようとするだろう。ほっとけばよいじゃないか?

ところが、血清は値段が安く、利益がだせないため国主導で開発が行われるべきであるという。話がオカシイのである。なぜ、命がかかっているような大切なものに値段をつけることができないのか?

そう、国が実質的に医療保険を独占し、薬価を独占的に決めていることで、血清では利益をだせない。それが問題なのだ。一生懸命、人々の必要とするものを開発しても、安く売ることしかできない。安売りを強制されるから、作ることができないのである。

つまり、開発への国の関与が足りないことではなく、国の医療統制が引き起こした構造的な問題があるという話なのだ。国の歪んだ制度が、市場を歪め、結果的に必要な研究開発が進まない。

市場原理がリスクを抑え込むメカニズムを国が無効にし、その穴埋めを科研費で行ったという構図になっている。そしてそれは危うい、という話なのである。

当事者であるはずの研究者は、「マイナーでも命にかかわるから強制的に配分せよ」では有限な資源を分配することができないことを理解しているはずだ。たとえば、「ヤマカガシの血清や自動車の安全性向上のための研究は、天文学や史学の予算より確実に優先されるようにするべき」とは言わないだろう。

「正しい分配」なんて誰も決めることができないことは知っているはずだ。だから、科研費が当たりはずれのある性質のものだとも理解しているし、それを仕方ないと言うしかない。

研究の実績があれば、論文のインパクトも効いてくるだろう。だが、それだけで済む話でもない。どうしても押し通したかったら、研究者自身が「プレゼン能力」を磨いたり、「上手な申請書の書き方」を覚えたり、「政府にはたらきかけ」をしたりしないといけない。それを危ういと感じるのである。

その分配基準を信用していないからこそ、別枠でやれと言う人も現れる。だが、ちょっと待ってほしい。別枠でやればやれる話だろうか?別枠、、、その線引きの基準を政府が決めることができないということが、問題の本質なのだ。そんなことができないから、血清を作る事業者すら現れなかった。そういう話なのである。

市場によるテストを経ないで方針を決定し、政府の強制力によって正しく分配することはできない。有限なリソースを、政府に正しく分配することなんてできない、それができるのは市場だけだ。これは、原理である。そもそも不可能なことを政府に任せ、問題が起こる。その症状が科研費にしわ寄せされ、顕在化しているという話である。政府に何もかも俯瞰する素晴らしい知性が現れて別枠を設けるべきだと喚いても仕方ない話なのだ。

科研費の財源は税金である。他者から奪ったカネをこちらで研究に使うという話だ。すると、「ヤマカガシの血清や自動車の安全性向上のための研究は、天文学や史学の予算より確実に優先されるようにするべき」という話になる。研究者でさえ、そんなことを時折思いついてしまう。(でも、そんなこといったら科学研究のかなりの部分はできなくなってしまう……とも知っている。)

そう、結局、科学研究は税金に頼ってやったら、身動きがとれなくなってしまうから、ダメなのである。

ヤマカガシの血清の例における問題は、国による研究の統制、あるいは医療にみられるような価格統制は、人々(市場)に必要とされる研究開発をしても、見返りを得ることがあらかじめできなくなっているという話なのである。それは、世界的にみて日本国内の研究者の待遇が低い理由でもある。

同時に、人々に必要とされないと役人にみなされたら、研究活動自体が制限されてしまう仕組みでもある。つまり、政府に役に立たないとみなされたら、予算の配分を受けることができず、研究機関に所属し続けることもままならないという話でもある。

それでもやりたいことをするための金を自分で集めて事業化すればよいじゃないか?だが、政府の仕組みの外での研究成果は、利益を税として奪われ、懲罰を受けるという話なのである。そしてその税金は、大学に所属して、政府の傘の下で研究している者たちに分配されるのである。

企業も試験開発のための予算を獲得する窓口として大学を利用しようとする。研究活動に対する政府のインパクトは、企業と大学の関係にも大いに影響を与えている。

結局、政府が研究者の研究活動を縛り、研究成果の安売りを強制し、民間部門での活躍の場も奪っているという話なのだ。どこにいっても、政府の方針に沿った仕事しかできなくなってしまっていないか?それこそが、危うさなのではないだろうか。

学問の自由ってなんだったか?何のために必要なものなのか?それはもっと、大切なものなのではないか?

 

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