科研費って必要ですか?

国立大学が国立行政法人化して20年近い期間が経とうとしている。

大学の中にいる人はしばしば訴える、「産学共同研究」ばかりではなく、基礎研究が大切である。これは、至極もっともな話である。大学という教育研究機関では、当然に頭脳が集積する。確かに、そこで行うべき研究は、大学でなくてもできる近視眼的なシゴトではないはずである。また、科学に限らず、あらゆる学問の歴史を振り返れば、基礎研究をおろそかにして長期的な発達があったとは思えない。

一方、無理な話でもある。一部の研究者はいう、いわゆる「競争的資金」ではなく、裁量で使える予算配分がもっと欲しいと。だが、国家が税という形で強制的に集めた有限なリソースを配分するとき、その研究とあの事業が比較されないなんてことが当然だろうか?それは、余裕のある人が資金を提供する場合なら許されるかもしれない。けれども、余裕のない人から奪うことまでは許されるだろうか?

政府に依存する学問

何が間違っているのだろうか?きっと、間違っているのは国の予算配分の仕方ではない。予算配分を国に頼っていることである。

科研費やその他の国による研究予算の配分を廃止・縮小し、単に税を減らして民間に返すべきなのだろう。そもそも民間から直接資金が入ればよく、文科省や独法を経由する必要がない。そこに価値を見出す人が出資したり寄付すればよく、また、望まない人に負担を強制するべきでもないのだから。

国が「計画」に基づいて予算を配分し、企業が政府予算を獲得するための窓口として大学を利用するという役人中心の構図が作られた。これが、「産学官共同」の正体である。

まったく残念なことに、研究者たちが一年のかなりの時間を、紙切れを埋めるためだけに費消してしまっている。計画の途中で関心が変化しても、身動きすることができない。科学実験は巨大化したが、その要素は既知の成果の寄せ集め、本質的な成果が生じにくくなっている。

企業から見れば、大学は補助金や研究資源獲得の手段に過ぎなくなってしまった。研究者が政府の方針に整合するように申請書を調整し、予算配分を乞う役割を負わされ、そこに適合しなければ居場所を失っていく。

大学の予算配分をデモクラシーに頼ってしまったら、予算は政治や役人の無責任と抱き合わせでやってくる。決して自分の金ではないという負担の強制に由来する無責任が、「分かりやすさ」「成果のだしやすさ」を求めるのである。税の配分、役人の関与が大学の発達を阻害する。

自由社会における大学

本当に「商業的」であるならば、最大の成果を生み出すような投資傾向が生じるだろう。現代の「産学共同研究」は、決して商業的態度とは言えない。

もし、大学というリソースを無駄遣いする傾向が見えるとすれば、それは商業的動機の結果ではなく、権力によって他人の金を使って成果を持ち去りたいという政治的動機があるからなのである。

欧州や米国で大学が発達したのは、誰かから税金を奪って役人が計画した事業を運営させたからではない。単に市場の中でやがて評価される価値を作り出すことが期待できたからである。

将来性を感じたり、価値があると思う人がたしかにいて、一定の出資や寄付が集まり、そこに大学が地位を得た。社会の余裕の一部がそこに投じられ、成果を膨らませた。余裕のない人から奪って、燃料としてくべたわけではない。

 

学問の自由

本来、役所や独法が分配する競争「的」資金などではなく、大学は本物の自由市場から資本を獲得するべきなのである。大学への政府予算を減らし、民間に任せた場合、企業は簡単に売れる仕事や役人にウケる流行りシゴトではなく、数年で成果を出せるような分かりやすいテーマばかりではなく、大学だからこそ生じる成果を求めて大学に投資するだろう。

短期的というよりは長期的な関係を作って、学問を尊重し、協業しようとする態度を伴うに違いない。なぜならば、それこそが合理的だからだ。

ヤマカガシの血清の話

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