「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

「愛されやすい人柄」というのは特殊スキルであり才能であり、それを持ってると色んな人が助けてくれるので生きていきやすい。だから、それを持ってない人でも公平に助けるのが公的扶助の役目だ。こういう主張をする人がいた。

これ、間違いだ。弱者は公的な救済に頼れという政治家や役人が大好きな言い回しには、多数決に認められるほど可哀想な人になって、政党の票田になるほど集団化して、政府の強制力の傘の下に入りなさいという論理が隠れている。

大きなものに媚を売りましょう。労働者なら連合をまつりあげ、差別が嫌なら解同をまつりあげ、よくわからなかったら創価学会に入信したりして、政党の票を支えましょう。すでに行列待ちだ。

政治的序列の上の方に入ろうという果てしない競争が、自民党体制を作ったわけだね。政党に票を与えるか、献金すれば、権力者に保護される、そういう話だ。そう、確かに政府の「優しさ」を獲得するには特殊能力はいらないかもしれない。必要なのは強力な縁故である。

政治的序列における踏みつけあいの競争をするのは、単に自由に生きるより凄惨だし、その現実を大人なら知っているはずだ。多数にウケるいい人になりなさい、っていうのは多数決が決める公的な保護への依存を前提とするからだ。そのためには大切な人を助ける余力さえ、公に奪われるにまかせないといけなくなる。本来なら、大切にしてくれる人を大切にすれば十分なのに。

あなたを大切にしてくれる人を大切にしなさい、あなたを傷つける人のことはまずは気にかけなくてよいですよ、と言えるのは、自由な社会である場合だ。

政府が「助け合い」を強制する社会では成り立たない。政府が「助け合い」を強制する社会では、政府に認知されて保護される側にならなければ懲罰を受ける。財産をただ強制的に奪われるのである。そこにあるのは奪い合いである。多数に助けられる人にならないといけないから必死だ。

自民党が強くなるのは、当たり前だ。でも、弱者は政府に保護されるべき、と叫んでいるのが野党なのだから救いがない。 そっちも、政府という装置の一部なのだ。政府の教育をうけてその応援団になっている人たちも。

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