「愛されやすい人柄」を演じなければならない社会

『「愛されやすい人柄」というのは特殊スキルであり才能であり、それを持ってると色んな人が助けてくれるので生きていきやすい。だから、それを持ってない人でも公平に助けるのが公的扶助の役目だ。』

こういう主張をする人がいたけれども、これは深刻な誤りだ。

弱者は公的な救済に頼れという言い回しは、政治家や役人が大好きである。「多数決に認められるほど可哀想な人になって、政党の票田になるほど集団化して、権力の傘の下に入りなさい」という論理が隠れているからだ。

「誰からも愛されやすい人柄なりなさい」の反対は、「あなたを大切にしてくれる人を大切にしなさい、あなたを傷つける人のことはまずは気にかけなくてよいですよ」である。

「誰からも愛されやすい人柄なりなさい」が正解になるのは、多数決を前提とする民主制が決める公的な保護への依存を前提とするからだ。民主主義の決定に頼るには、沢山の人に分け隔てなく可哀想だと思われなければならない。

民主主義ではなく自由主義に沿った社会であればそんな話にはならない、「あなたを大切にしてくれる人を大切にしなさい、あなたを傷つける人のことはまずは気にかけなくてよいですよ」という話になる。

 

政府が強制する「助け合い」に依存した社会では、政府に認知されて保護される側にならなければ実質的な懲罰を受ける。税やその他の手段で財産を強制的に奪われるばかりになってしまうのである。政府の決定に振り回される社会では、多くの人に認知されなければ、救われない社会になる。

大きなものに媚を売りましょう!

労働者なら政党と仲の良い労働組合をまつりあげ、差別が嫌なら政党と仲の良い権利団体をまつりあげ、よくわからなかったら政党と仲のよい宗教団体に入信したりして、政党の票を支えましょう。政党や権利団体に票を与えるか、献金すれば、権力者に保護されるよ。

政治的序列における踏みつけあいの競争をするのは、単に自由に生きるよりはるかに凄惨だ。その現実を大人なら知っているはずである。そう、政府の「優しさ」を獲得するには特殊能力はいらない。必要なのは強力な縁故である。

そこにあるのは奪い合いと、悲鳴だ。公権力にまかせれば、その無責任さと非効率さ故にどんどん自由を失ってしまう。そして、大切な人を助ける余力さえ、公に奪われるにまかせないといけなくなる。人々はより過酷になり、しかも多数に助けられる人にならないといけないから必死だ。

政府が強制する「助け合い」に依存した社会では、誰もが「愛されやすい人柄」を求められることになる。人間は本質的に多様であるから、大抵の人は仮面をかぶって「愛されやすい人柄」を演じているに過ぎない。

強制が廃されて自発的な助け合いによって成り立つ社会では、誰と付き合い、誰と付き合わないかを、自分で選ぶ権利が守られる。無数にいる人々の中で自分を大切にしてくれる一握りの仲間がいるだけでも生きていくことができるし、多くの人と交流することも自由である。いずれにしろ、そこには奪い合いや欺瞞ではなく心からの敬意や善意が紡がれることになる。

「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由

縁故資本主義における窮屈な競争

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