表現の自由と政府の衝突

表現の自由とは、「政府あるいは民主主義が表現を規制しないこと」。ところが、「誰もが表現を存分に行うことが望ましという態度のこと」だと書いた人がいた。これはよくある勘違い、あるいはごまかしだ。なんでこのようなごまかしが生じるのか考えてみることにした。

表現は、人々の自由な判断によって、ある表現は受け入れられ、あるいは嫌われるにまかせるべきである。表現についての責任が本人にあるのは言うまでもなく当たり前のことだ。結果的に嫌われたり恨まれたりするかもしれないけど、だからといって表現を法的に懲罰するべきではない。それが表現の自由というものだ。

表現の自由に制限がある社会では、政府の容認する表現以外は制限される。自由な人々が自発的に嫌な表現を避けることによってではなく、この制限を逸脱すれば法的に不利益を受けることによって、表現を制限する。

どの表現が許されるべきか?そんなことを決めることができる権力を政治的強者が持つ。そんな力を、多数決で選んだ政府に与える、という話である。

表現の自由が失われた社会では、弱者は権力に迎合するように振舞わなければならない。政府が多数決で選ばれるとすれば、弱者は多数決に保護されるように振舞わなければならなくなってしまう。そんな前提を作ることは、それ自体が搾取なのである。


表現の自由という概念は安易にごまかされがちだ。実際、政府による規制を否定するべきという概念であるはずなのに、そういう人もまた政府の設定した教育を一通り受けた人が「誰もが表現を存分に行うことが望ましという態度のこと」などという曖昧な表現に逃げようとするのである。

ここで、そもそも、表現の自由というのは、嫌な奴を助けない自由と同時に実現しないと成り立たないということに注意しよう。

表現の自由という考え方が曖昧になってしまうのは、誰かを嫌ったり憎んだりする自由がいつの間にか曖昧になっているからではないだろうか?。つまり、財産の自由や自由そのものの概念が曖昧になっているのではないだろうか?

政府による助け合いの強制や取引の強制を肯定しながら表現の自由を主張しようとすると、そこでどうしても衝突が生じる。その前提では、表現者が責任を負うことが制限されてしまい、表現者が無責任になってしまう。

例えば、Aさんから奪った税金で補助されたBさんがAさんを攻撃する表現を行うことは、肯定できるはずがない。 でも、政府によって助け合いを強制された社会ではそれが避けられない。例えばAさんは、国から補助金を受け取っているかもしれないし、あるいは公営社会保障の恩恵を受けているかもしれない。

Aさんは攻撃的な態度をとるBさんに対して、いつでも自由に取引を拒否できなければならない。そうでなければ政府の保護のもとでいくらでも乱暴な表現を受け止めなければならなくなってしまうだろう。ところが、法律が取引を拒否することを規制したり、雇用を拒否することを規制してしまうと、AさんはBさんとの関係を遠ざけることができなくなってしまう。

表現の自由と、強制的に財産を奪うことを前提とする政府の存在は衝突するし、強制力によって個人の自由を奪う政府の存在と衝突する。表現の自由を守れというとき、同時に財産の自由やそのほかの自由も守れといわないければ辻褄が合わないのである。

もちろん、ここで表現の自由を制限しろというのは間違いである。そもそも表現は規制されるべきものではない。なぜならば、それ自体が国家による搾取を導くからである。表現の自由を求めることが乱暴なのではない。ここから導かれるべき結論は、助け合いや取引の強制は暴力だということである。

表現の自由を求めるとき、財産の自由や、生き方を選ぶ自由も、同様に求めなければならない。それは、政府の機能をかなりの部分で否定することを意味する。だから、自由でない社会では表現の自由の概念を曖昧にする力が働く。政治家や役人は、表現の自由を正しく説明することを望まないものなのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。