「表現の自由」と「差別する自由」がどうしても必要な理由

憲法は、政府が表現の自由へ干渉することを厳格に禁止している。だが、それでは弱者が守られないという人もいる。とはいえ、もちろん憲法は弱者を蹂躙するように設計されているわけではないはずだから、憲法を無視して表現の自由を制限するべきという主張にはきっと何か間違いがあるはずだ。

表現の自由を前提としながらどうして弱者の立場が守られるのだろうか?

憲法は、誰にでも(他者の自由を奪わない限り)差別する自由があることを前提としている。「差別する自由」とか「差別する権利」などという概念が必要だというと、多くの人がそんなはずがないというだろう。

でもそれは、「差別」という言葉が不当にネガティブな意味を与えられてしまっていて、肯定すると罪悪感を感じるように思い込まされているだけではないだろうか?

「差別」をテーマにすると、歴史上の「差別」の例としていかに人々が暴力にさらされてきたのかを延々と並べる人がいる。けれどもそのリストは、差別を禁止するべきという前に暴力が禁止されるべきであるというためにこそ役立つものだ。それとも、悪いのは暴力ではなく「差別」だろうか?

殴るとか、殺すとか、脅すとかいうのは、単に暴力であって、言うまでもなく許されないことである。他人の自由を奪う人権侵害だからだ。

一方、差別とはそもそも、相手によって対応を変えるということである。買いたくない相手からは買わないし、売りたくない相手には売らない。助けたくない相手は助けない。これらはもちろん差別であるが、誰の人権も侵害していない。

嫌な相手との取引を拒否したり、嫌いな人を助けてやることを拒否する差別は、もともと個人の自由である。差別する自由はたしかに守られるべき人権なのである。他人と距離を取ることを禁じて同じ檻の中で暮らせと命じる権利なんて誰にもない。(それを制限したら、隷属的な雇用関係や人間関係を容易く作り出すことができるてしまう。)

ところが政治は、脅迫とか強要とか危害を加える行為(それらは言うまでもなく犯罪である)と抱き合わせて「差別」と呼ぶ。そうすることで、個人の自由を制限する口実を政府に与えようとするのである。

私たちが厳格に監視し、制限するべき「差別」もある。私たちが他者の自由を制限することなく行う差別ではなく、「暴力」によって他者の人権を蹂躙する行為や、政府の強制力を用いた人権侵害である。

国家権力による強制を前提とする政府による差別は、差別される者の自由を奪う。だから、とくに民主主義国家では、政府の強制力を利用した差別こそ、絶対に制限されるべきなのである。

表現の自由の制限を国家権力を求めると、人々から差別する自由を取り上げ、政府だけが独占的に差別できるという話になる。強制力でもって一部の人々から財産を搾取して他方へばらまいたり、強制力でもって特定の生き方を優遇してそれ以外の生き方と冷遇するような「政府による差別」を拒否しなければ、政治的弱者が長期間深刻に人権を侵害されてしまうことになる。

民主主義国家における憲法が、私たちではなく政府を制限するためにこそ存在していることを思い出そう。私たちが人権蹂躙から人々を守るためには、民主主義を通じて国家権力を行使するとしても、政府に人々の生き方を差別させてはならないし、人々の自由をみだりに制限させてはならないのである。

それではどうして弱者を攻撃的な表現から守ることができるのだろうか?

私たち一人ひとりは、他者を差別する自由を持ち、同時に、その結果に対する責任を負わなければならない。自由に表現することができる一方で他者に嫌われれば関係を拒否されたとしても仕方がない。だからこそ、乱暴な表現は淘汰され、人権の蹂躙は緩和されていくと信じることができるのである。

弱者への弾圧を私たちが自由に拒絶し、振るわれる暴力に対して自由に抵抗することができるとき、他者の人権を侵害しなくても私たちは弱者の地位を政府の表現規制に依らずに自由に守ることができる。だから、私たちが差別する自由を政府が邪魔しない前提では、表現の自由が弱者をこん棒で殴り放題になるような話にはならない。

自由な社会では、嫌われようとも、好かれようとも、当人の責任である。他者に嫌われるような表現をすれば自ずと損するだろう。だが、その結果については当人の責任であり、救ってやる義務は誰にもない。それこそが大切なことなのである。

だが現実の話をするなら、私たちは「差別する自由」を政府によって邪魔されてしまっている。たとえば放送免許などの政府の許認可によって独占を保護されたメディア政府の強制的な徴税を前提とする補助金によって保護された企業や、公営社会保障の強制は、国家権力による徴税や規制・優遇を通じて、私たち一人ひとりが乱暴な表現を拒否する自由を邪魔している。……これらはすべて公然と行われているが、忌むべき「政府による差別」であって人権が蹂躙される原因に他ならない。

歴史上の最も深刻な人種差別や、障害者差別、性差別などは、国家によって合法的に行われたものばかりだ。多くの人が知っているように、米国での黒人差別にしろ、南アフリカでの人種隔離政策(アパルトヘイト)にしろ、ナチスドイツによるユダヤ人差別や障害者差別にしろ、政府がそれを合法としたことによって深刻な暴力が正当化された「政府による差別」だったということをしっかり認識しないといけない。

「政府による差別」が、非合理に差別する者を優位にし、そうしないものを不利にしたことで、長期間にわたって人々の経済的利害や生活環境や観念を歪め、そこに暮らす人々や政府に暴力の口実を与えた。(そうでなかったなら、はるかに速やかに問題は解消されていただろう。政府の強制がないとしたら、非合理に差別することはそもそも損だからである。)

表現の自由は、弱い者が強い者に立ち向かう時に必要となる権利である。私たちが差別する自由を政府によって邪魔されてしまうなら、私たちは弱い立場の人を弾圧から守ることができなくなってしまう。 とくに、政府の権力を利用した弾圧から守ることはまったく不可能になってしまう。それどころか、弾圧に加担せざるを得なくなってしまうことさえしばしば起きるのである。

「差別する自由」なんて必要ないという思い込み(この思い込みはどこで教わったのだろうか?)が、「政府による差別」をあっさりと人々に容認させ、表現の自由を無意味な標語にしてしまう。そうなってしまえば、弱者への人権蹂躙が放置されてしまうことになる。

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