差別する自由が必要な理由

このようにいう人がいる。

『「表現の自由」というのは、弱い者が強い者に立ち向かう時に保障されるものです。そして、自由には責任が伴います。自由とは、好き勝手放題していいということではありません。』

自由には責任が伴う

自由には責任が伴う、それは当たり前である。

嫌われるとも、好かれるとも、当人の責任だ。自由な社会では、嫌われようとも、好かれようとも、それは当人の責任である。他者に嫌われるような表現をすれば自ずと損するだろうが、その結果については当人の責任であり、救ってやる義務は他の人にはない。

表現の自由を規制するべきという人は、個人の責任ではなく政府に責任があると主張しているのである。

国家権力は「強者」だ

強い者に弱い者の表現を制限させないことが表現の自由の本質であって、国家権力によって制限させるなど言語道断のはずだ。

「弱い者が強い者に立ち向かう時に保障されるもの」を、よりによって国家権力に規制させようとするのはなぜだろうか。

このように論理がねじれるのはなぜだろうか?政府を信用できるものとして勝手に規定してしまっているのである。だが、政府は信用できるものだろうか?

差別がダメなのか、暴力がダメなのか

差別とはそもそも、相手によって対応を変えるということである。

買いたくない相手からは買わないし、売りたくない相手には売らない。助けたくない相手は助けない。これらは差別である。そしてもちろん、個人の自由に属するものだ。

殴るとか、殺すとかいうのは、単に暴力であって、言うまでもなく許されないことである。他人の自由を奪う行為だからだ。

ダメなのは暴力であって、差別ではない。

 

国家社会主義と表現の自由の衝突

嫌な相手との取引を拒否したり嫌いな人を助けてやることを拒否する差別はもともと個人の自由であるのに、言うまでもなく犯罪である脅迫とか強要とか危害を加える行為と抱き合わせて差別と呼ぶ。そうすることで、個人の自由を制限する口実にしようとする。これが、政治によって捻じ曲げられた「差別」の概念である。

「個人の失敗を国家が救わなければならない」とする意見がしばしば主張される。国家による公営の社会保障を肯定したり、税による強制的な再分配を肯定する立場がある。このような立場は、表現の自由という考え方と馴染みにくい。

表現の自由と国家による救済を同時に要求すれば、乱暴な表現をする者が国家によって保護され、どんどん肥え太ってしまうことになる。罵ってきた人間だろうが、強制的に救済させられる状態を要求しているのである。他方で表現の自由を要求できるはずがない。

国家によって相互扶助を強制される社会では、そもそも個人の責任範囲が限定されていて、嫌われる自由や、嫌う自由が国家によって奪われてしまっている。

自由は、責任を伴うからこそ意味がある。表現の自由は、相手によって対応を変える自由が同時に存在しなければ成り立たない。差別する自由が必要なのである。

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