差別する自由

差別というのは、自由でない状態で生じるものだ。自由な状態で感じるとしたら、それは自然な恐怖とか不安というものだね。それは、本来なら少しずつ距離感を試すことで消えていくものだ。

未知のものに対する不安の程度も種類も、人によって違う。遠くで見ている人もいれば、最初から近づく人もいる。どちらが得になるかは試してみないと分からない。うまくいったらもっと近づく、怖いなら遠くから見ている。

これは、生物としてまったく必要な能力だ。もし、全ての魚が陸に上がろうとして失敗したら、そこで終わってしまう。すべての魚が海の中で満足していたら、そこで生物の進化は終わっている。自由に試せることは、生物の進化に不可欠だ。

「差別はよくない」なぜならば、得しないからだ。けれども、自由を奪うことはもっとよくない。政府の規制によって差別が解消されるわけではなく、自由な人々の試みによってこそ差別は無くなるのである。

何が怖いのか、何が不安なのかを、社会が決めてやるとか、政府が決めてやるっていうのはとても乱暴だ。一人ひとりの心の中にあるものを他人が決めることはできない。強制的に内心を封じようとしても、長期間歪んだまま、むしろ膨張する。未知のものに対して不安を感じるのは、動物として自然なことだからだ。

無理を押し通せば、内心に不安は残り、潜在的な危険に無頓着になり、政治的な利権も生じる。それこそが、差別が放置される原因そのものである。

不合理な差別は、自由な市場に置かれていれば本来なら放置されるはずの無いものだ。それが不合理であればあるほど、速やかに緩和されるはずだ。

自由な市場は、差別を駆逐する。

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