ガラパゴス化じゃなくて家畜化では?

政府によって自由競争が阻害されると、役所の条件に適応し、役所から仕事をもらうための競争、あるいは、役所の示した条件に適合するように事業計画を立てる競争が始まる。役所から仕事を得るための競争は、自由競争よりもはるかに熾烈な縁故資本主義の競争である。

役所に適合するための競争、それによって起こる歪んだ進化こそ、ガラパゴス化と揶揄されたものの正体だろう。でもそれは本当に、ガラパゴス化と呼ぶに値するモノだろうか?

生物史でとりあげられるガラパゴス諸島で起きた特異な進化は、たしかに閉じた環境における自然淘汰の結果である。だが、独特の進化をたどったといっても、自然の作り出した形質には鮮やかさがある。生物が自分にできることを試し、生存圏を拡げるために次々と獲得していった形質は、合理的だ。それぞれが意味を持っているから、鮮やかなのである。

一方、役所に適合するための進化は金魚や犬猫の人工的な選別淘汰のような不自然なものだ。実のところ、ガラパゴス化というより家畜化といったほうがふさわしいかもしれない。家畜はさまざまな色を持っていても、それに生きやすくなるための合理的な意味が伴わない。飼い主に都合よく利用されるための形質でしかないからだ。

縁故資本主義の発達した社会で生き残るための競争の中では、予算の打ち切りとともに破綻する事業者は後を絶たない。縁故資本主義の競争は、消費者に対する競争ではない。限られた資源を、役所の条件に合わせるために食いつぶしてしまうと、本来の消費者のための競争に割り当てる余裕が失われてしまう。だから、役所の方針が変わったら、いとも簡単にいらないものになってしまうのである。

自由競争が無くなったからと言って、役所から仕事をもらうのは決して楽ちんではない。くたびれた家畜は、より良い製品やサービスを作ることによってではなく、許されるギリギリまでタテマエを肥大させることによって生き残ろうとする。利権は、腐敗するべくして腐敗していく。縁故資本主義の発達した社会が不正を作り出すのは、その競争が消費者を獲得するための競争ではなく、役人に認められるための競争だからなのである。

役人に選ばれる縁故資本主義の競争ではなく、市場に選ばれる自由競争でなければ、意味がない。だが、今の日本は、納税者のカネを手に入れるための紙切れを書く競争だらけだ。大企業も中小企業も、保育園も大学も、みんな一緒になって政府のカネの奪い合いをしている。腐敗した社会全体が本質的に不毛な競争に縛られ、徒労感ばかりが膨らんでいく。同時に、本来の自由競争を行う余力を奪われている。

辺りを見渡すと、ただ悪趣味にギラギラしているか、灰色に曇っているか、あるいは張りぼてでごまかされているものばかりではないだろうか? かろうじて鮮やかさが見られるのは、それでも自由に生きようとする人々である。

縁故資本主義における窮屈な競争

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