公的社会保障と健康ファシズム

政府の社会保障と健康ファシズムには直接の強い結びつきがある。

本来あるべき民間保険と政府の社会保障の違い

自由市場における保険会社は、リスクを過大に見積もれば保険を売ることができないし、リスクを過少に見積もれば儲けが減ってしまって破たんする。だから、保険会社は正しくリスクを見積もろうとする。利用者は保険料の妥当性を比べて選ぶことができる。市場が成熟するほど民間の保険には正確にリスクが織り込まれる。

国家の提供する「保険」は、事業の失敗を納税者に強制的に穴埋めさせて破たんを免れる。だから、リスクを正しく見積もる必要がない。代わりに、有権者の支持をいかに獲得し、権力の支持基盤をいかに強化し、権力をいかに補強できるかで判断されることになる。最初は良い計画を立てることができるかもしれないが、政府の保険が成熟することはなく、建前によるごまかしだらけになり、腐敗していく。

健康ファシズムはどのように生まれるのか?

国家社会主義の体制(そう呼ぶべきだ)では、社会保障を国家が供給する。

国家権力が定めた税あるいは社会保険料と称する実質的な税の負担を強制し、医療や福祉を賄おうとする。国家による社会保障の試みは長期的に失敗する。医療や福祉が表面的には需要と無関係に割安となるため、過剰に消費されるからだ。慢性的な供給不足に陥るか、さもなくば、慢性的な財政難に陥るだろう。

このような国家社会主義の体制では、国民の健康を守ることは国家の責務である。従って、権力による健康の強制は、自由よりも優先される。社会保障の失敗をごまかすには権力による強制が必要になる。つまり、政府は健康な生活を強制しなければならない。

公的社会保障を前提とする政府が生活スタイルを統制しようとするのは必然だ。実際には人々の人生の目的や嗜好は多様であるから、政府が縛ろうとすればするほど歪は大きくなる。そしてより一層、人々を縛ろうとする。これが、健康ファシズムの構造である。

狂暴化する民主主義

国家社会主義を支持する多数派は、公的社会保障の失敗を認めない。その原因を、人々に求めようとする。他人の金を使って他人を助けるという公的社会保障の根本的な無責任が除去できないから、公的社会保障は失敗し、健康ファシズムを導き、しかもそれは掲げられる建前のようには機能しない。人々を縛っても縛っても、本質的には問題を解決しないから、人々はどんどん自由を失っていくことになる。

その結果生じるのが、障害者の弾圧であったり、多数派が軽視する文化の排斥だったり、喫煙や飲酒の規制、税を使ったスポーツの奨励などである。もちろん、これらの「対策」によって公的社会保障の失敗を解決することはできず、政治的弱者を殴りつけ、納税者のガス抜きとして機能するに過ぎない。

そのままでは国家の財政は悪化していくから、少数から搾取したり、国外から搾取しなければ辻褄が合わなくなる。自由を奪う国家は、人々を監視し、管理しなければ維持できなくなる。人々が目にするのは、窮屈な社会と、肥大していく権力である。

自由社会での健康

いかに喫煙や飲酒が危険かという議論をするとしても、公的社会保障を正当化するためにいかに喫煙や飲酒が危険かという議論をするならば、まったく意味がない。

費用を強制負担させなくても、一人ひとりは健康を大切にすることはできる。「自分は健康的に生活しているから、お前も健康的に生活しなさい、さもなくば罰を受けなさい」などと言わなくても、多くの人は健康的に生活することを望んでいる。健康に生活するインセンティブを無効にしているのは公的社会保障に他ならないし、その結果自由の奪い合いを正当化してしまうのは間抜けなことだ。

目の前にある公的社会保障が間抜けなねずみ講に過ぎない代物であることは明白なのに、いかにも守るべきものであるかのように思い込もうとする人々が、いかに喫煙や飲酒が危険かという議論をふっかけ、さも政治的強制が必要であるかのように扇動する。健康ファシズムによって組み立てられる全体主義は、人々の自由を確実に制限していく。

人間とは多様なものであって、人生に何を求め、どんなリスクを受け入れるかは、幸福追求権によって守られるべき個人の自由の範囲に含まれる。それをないがしろにすれば、人々が幸福になることはどんどん困難になっていく。健康へのリスクは、そもそも一人ひとりが自由に判断すればよいことである。それを認めなければ、深刻に自由が失われていく結果を見ることになる。

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