公的社会保障が健康ファシズムを作り出す理由

政府の社会保障と健康ファシズム 、禁煙ファシズムには直接の強い結びつきがある。

政府による生活への介入がどのように、なぜ起きるのかを理解するために、公的社会保障と健康ファシズムを取り上げてみよう。

公営社会保障=強制された助け合い

公営社会保障は強制された助け合いである。

もしも誰かが不健康を放置すれば、そのコストを他者が強制的に負担させられることになる。そのため、助け合いの強制はその存在自体が国民に健康である義務を国民に要求する。公営社会保障は、喫煙の禁止を要求するし、飲酒を禁止することを要求するし、政府が定めた食事を要求するようになる。つまり、自由を奪うことが運命づけられている。

公営社会保障と民間の保険制度を比べてみよう。

民間の保険は、不当に高くリスクを見積もれば消費者に選ばれない。だからといってリスクを低く見積もれば高いリスクを背負うことになって、やがて破たんする。保険会社はリスクを正しく見積もることによってのみ競争に勝つことができる。

一方、政府の保険は失敗しても税金によって補填されるから、民間の保険よりも見かけの保険料は安くなるけれども、リスクを将来に残してしまう。最終的には税負担を強制されているから正味では損してしまうのである。つまり、保険としては失敗する運命にある。

政府の保険は必ず失敗するから、それをごまかすためには民間の保険に対する優位性を政府の強制力によって作り出さなければならない。つまり、政府の保険は、民間の保険を選ばせないことによって成立する。

医療費を「平等に」負担させると称して政府の強制力によって政府の保険への加入を強制すると、民間の保険は発達しなくなる。結局、政府の保険は必ず失敗し、その責任を加入者の自由を奪うことによって果たそうとする運命にある。

民間保険の発達を阻害する政府の社会保障

本来、自由な市場における保険会社はリスクを過大に見積もれば保険を売ることができないし、リスクを過少に見積もれば儲けが減ってしまって破たんする。だから、保険会社は正しくリスクを見積もろうとする。利用者は保険料の妥当性を比べて選ぶことができる。民間の保険には、市場が成熟するほど正確にリスクが織り込まれる性質がある。

政府の社会保障が強い場合、本来あるべき民間保険が発達しない。自由市場が歪められ、民間の保険会社が合理的な保険を供給しようとしても政府の社会保障に負けてしまうからである。負けてしまうといっても政府の社会保障が素晴らしいからではない、強制的に集める税によって損失が穴埋めされるためだ。失敗の責任を利用者に強制的に負わせることが前提となっているのである。

国家の提供する「保険」は、事業の失敗を納税者に強制的に穴埋めさせて破たんを免れる。だから、リスクを正しく見積もる必要がない。代わりに、有権者の支持をいかに獲得し、権力の支持基盤をいかに強化し、権力をいかに補強できるかで判断されることになる。最初は良い計画を立てることができるかもしれないが、政治家や役人はすぐに無理な約束をする。

政府の保険が成熟することはなく、建前によるごまかしだらけになり、腐敗していく。政府の社会保障は必然的に失敗し、一方で民間の保険の発達を阻害するから、社会全体の医療・福祉のコストが技術革新にもかかわらず右肩上がりに上昇してしまう。これが、公営社会保障の根本的な問題である。

過剰医療の拡大による医療費の増大

過剰医療が拡大すると、医療の価格自体が上昇する。

本来の需要より余計に消費されてしまうため、医薬品メーカーや医療現場には価格を下げる動機が生じないのである。これらの業界にとって、公的社会保障は巨大な利権となる。

一方、政府は予定される医薬品や医師の供給過剰に対して予防的な措置をとらなければならない。政府の計画によって許認可を統制し、価格を統制することで、市場をコントロールすることが正当化されるようになる。

だが、そのような統制経済は常に失敗する。市場を破壊した政府には、需要を見積もる手段がないからである。自由な市場では、供給不足は高い価格を招き、ただちに増産の動機を生む。供給過剰は安い価格を導き、解消される。一方、政府によって統制された価格は、単に政治的な大騒ぎによって決定されることになる。価格には需給を調整する機能が生じない。

必要な医薬品が供給されなかったり、不必要な医薬品が過剰に供給される。有効な治療法があっても政府が認可しないために供給されなかったり、副作用の疑いがあっても政治的にごまかされてしまったりすることになる。

富める人は、保険外の治療を求めたり、国外での治療を試すことができるかもしれない。だが、貧しい人は公営社会保障に縛り付けられることになる。公営社会保障によって、格差が拡大してしまうのである。

健康ファシズムがなぜ生まれるのか

ここで、健康ファシズムあるいは禁煙ファシズムと呼ばれる言葉について、なぜそのような言葉が生じるのかを考えてみよう。

国家社会主義の体制では、社会保障を国家が供給する。国家権力が定めた税あるいは社会保険料と称する実質的な税の負担を強制し、医療や福祉を賄おうとする。

既に述べたように、国家による社会保障の試みは長期的に失敗する。医療や福祉が表面的には需要と無関係に割安となるため、そのままでは過剰に消費されるからだ。

試みは、慢性的な供給不足に陥るか、慢性的な財政難に陥るだろう。あるいは、その両方が起こるだろう。

予定される失敗に立ち向かう政府にとって、国民の健康を守ることは国家の責務である。権力による健康の強制は、自由よりも優先されるようになる。

社会保障の失敗をごまかすには、権力による強制が必要になる。つまり、政府は健康な生活を強制しなければならない。公的社会保障を前提とする政府が生活スタイルを統制しようとするのは必然なのである。

人々の人生の目的や嗜好は多様であるから、政府が縛ろうとすればするほど現実との矛盾は増大し、歪は大きくなる。そして政府はより一層、人々を縛ろうとする。

この果てしない連鎖が、健康ファシズムの構造なのである。

良心によって生じる過剰医療の拡大

国家社会主義の体制における医療の過剰消費は、悪意によって生じるわけではない。むしろ、良心と合理的な判断によってなされる。

目の前に苦しんでいる人がいれば、可能な限りの検査と治療が試みないでいられるはずがない。割安な医療が目の前にあり、目の前に苦しんでいる人がいれば、可能な限りの検査と治療が試みられる。それが良いことであると思えるからである。

その医療の割安感は、ほかの人から税を介して強制的に集めた金によって穴埋めされている。酷い場合は、将来から前借して支払ってしまうのである。価格を政府の権力が捻じ曲げることで人々の判断が歪められ、誰かを救うために使うことができたはずの資本を、別の誰かの過剰医療のために注ぎ込んでしまう結果になる。

かくして、公的社会保障は常に失敗し、その失敗を将来の人々に先送りしてしまったり、より暴力的な反応~生活スタイルの強制に変換してしまうのである。

狂暴化する民主主義

国家社会主義を支持する多数派は、公的社会保障の失敗を認めない。その原因を、人々に求めようとする。

他人の金を使って他人を助けるという公的社会保障の根本的な無責任が除去できないから、公的社会保障は失敗し、健康ファシズムを導き、しかもそれは掲げられる建前のようには機能しない。

人々を縛っても縛っても、本質的には問題を解決しないから、人々はどんどん自由を失っていくことになる。その結果生じるのが、障害者の弾圧であったり、多数派が軽視する文化の排斥だったり、喫煙や飲酒の規制、税を使ったスポーツの奨励などである。

他者への健康の強制は、他者へのルールの強制を導き、ルール違反に対する強い憎悪を惹き起こしさえする。だがもちろん、これらの「対策」によって公的社会保障の失敗を解決することはできず、政治的弱者を殴りつけ、納税者のガス抜きとして機能するに過ぎない。

これらの「対策」もまた合理性を欠いている。感情的にいくらそれが「役に立つ」といっても、そこに投じる費用が実際に役に立っているかを計算することができない。これもまた、市場によるテストを受けないからである。

そのままでは国家の財政は悪化していくから、少数から搾取したり、国外から搾取しなければ辻褄が合わなくなる。自由を奪う国家は、人々を監視し、管理しなければ維持できなくなる。人々が目にするのは、窮屈な社会と、肥大していく権力である。

自由社会での健康

人間とは多様なものであって、人生に何を求め、どんなリスクを受け入れるかは、個人の自由の範囲に含まれる。費用を強制負担させなくても、一人ひとりは健康を大切にすることはできる。

そもそも、「自分は健康的に生活しているから、お前も健康的に生活しなさい、さもなくば罰を受けなさい」などと言わなくても、多くの人は健康的に生活することを望んでいるはずだ。

助け合いを強制しなくても、人々は助け合うことができる。それでは不満だと言ってこれを強制しようとしても、うまくいく方法はそもそも存在しない、人間に多様性があるからである。

強制される健康

政治的権力を維持したいという立場から答えが存在するらしいという幻想が捏造される。自由を制限して多様性を押し殺してしまおうという全体主義がそこに隠れている。

健康のための費用を他者に強制的に負担させる公的社会保障によって、健康ファシズムは必然的に導かれる。健康ファシズムによって組み立てられる全体主義は、人々の自由を確実に制限していく。

いかに喫煙や飲酒が危険かという議論をふっかけ、さも政治的強制が必要であるかのように扇動するのである。この文脈において、喫煙や飲酒がいかに危険かという議論を持ち出すのは欺瞞だ。いかに喫煙や飲酒が危険かという科学的議論をすることはできる。だが、公的社会保障を正当化するためにいかに喫煙や飲酒が危険かという政治的議論とは明確に区別されなければならないのである。

公営社会保障によって失われるもの、作られるもの

自らの責任を手放し他者に押し付ける制度によって、健康に生活するインセンティブを無効にしているのは公的社会保障に他ならない。妥当な医療の供給を困難にしているものも公営社会保障に他ならない。その結果、自由の奪い合いを正当化し、権力の肥大を招いてしまう。そして、それ以外の良い成果は全く生じない。

個人の幸福追求の権利をないがしろにすれば、人々が幸福になることはどんどん困難になっていく。健康へのリスクは、そもそも一人ひとりが自由に判断すればよいことである。

それを認めなければ、深刻に自由が失われていく当然の結果を見ることになる。

ナチスの社会福祉政策

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