民主主義国家に憲法が必要な理由

多くの人は勘違いして、権力が自由を縛る道具としてデモクラシーを使うことに肯定的だ。

民主的に選ばれた政府であれ、人々から自由を奪ってはならない。だからこそ、政府を縛る憲法が必要なのである。民主的に作られた権力なら表現の自由、営業の自由、職業選択の自由、財産の自由……あるいは幸福を追求する自由を奪ってよいという話なら、民主主義国家に憲法はいらない。

ところが、「憲法は国家権力を縛るためのものだ、人々の自由を奪うためのものではない。」と頭で知っているつもりの人でさえ、簡単にひっくり返して、権力を縛るための憲法を人々を縛るための憲法にしてしまいがちだ。

もし、民主的な方法であれば自由を奪えるというのであれば、みんなで自由を縛りあう結果を導く。多数が少数の趣味を制限し、多数が少数の生き方を制限し……画一的な生き方しか選べないように調整されてしまう。このような民主的な方法であれば自由を奪えるという考え方によって生じる状態が、全体主義あるいはファシズムと呼ばれるものだ。

人々は忘れてしまっているけれど、私たちの守るべき大切なものは一人ひとりが自由に幸福追求できるということであって、民主主義国家に統制されることではない。だから、民主主義国家は憲法を必要とするのではないだろうか?

累進課税が固定する格差

有能な人を雇いたかったら高い報酬を提示しろという人が、高い報酬の人に沢山課税しろというのは、おかしくないだろうか?高い報酬の人を雇えば沢山政府にピンハネされるのであれば、安い人材を雇ってやる事業だらけになるのは、当たり前のことである。

中国の電機メーカーが高い賃金を提示していると話題だが、日本では高賃金のソロプレイヤーに仕事をさせることが税金のせいで効率が悪い。そういう雇用形態で事業を行うなら別の国でやったほうが税制上有利だ。技術開発のように必ずしも土地のインフラや資源に依存しない事業であれば猶更、日本に事業拠点を置く価値が薄れる。

日本の大企業が人海戦術だらけになりがちで、てっぺんの細いピラミッド構造の組織だらけになるのは、当然だ。ある程度能力があるなら、安い人材を沢山使う立場の仕事をするか、国に守られた利権の中で仕事をするか、あるいは日本国外の仕事をするのが合理的だ。実際、学歴競争の上位の人が目指すのはそのどれかを選びがちだろう。それ以外の人は、賃金の安い側に固定されることになる。

これは、「高い報酬の人に沢山課税しろ」という社会では、まったく仕方のない話なのではないか?

日本の自営業者が減っている

国家の起こしたテロ事件『菅生事件』と破防法の成立

日本には警察が組織的にテロ事件を行った歴史がある。菅生事件も、乱暴な不正操作の一つとして挙げられる。

共産党員が容疑者とされた菅生事件という駐在所爆破事件がおきたのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年のことだった。この事件は当初、共産党員による犯行とされた。この事件は、一か月後の破壊活動防止法成立を後押しすることになったのみならず、講和と同時に結んだ日米安保条約(内乱鎮圧条項を含んでいた)を正当化する口実として用いられた。

「主権回復」がさかんに宣伝された講和条約だったが、当初から権力固定のために政府による不正な操作が用いられていた。警察・政府による自演テロ事件は、政治的な対立勢力を削ぐために利用された。

犯人を擁する政党として名指しされた共産党は、それまで35議席あった共産党は直後の選挙では全議席を失った。選挙結果に大きなインパクト与えた後になって、法廷では被疑者の冤罪が立証され、さらに、警察当局によるでっちあげが立証された。

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ナチスの社会福祉政策

「福祉国家」という考え方は、ファシズムを必然的に導く。人々は、膨張する政府を止める手段を持たないまま、深刻な自由の喪失を経験することになる。

国家による高い社会保障を要求する福祉国家の考え方は、政府が失敗する存在であるという点を無視しがちだ。政府は必ず失敗するが、その失敗の責任をとらずに納税者に転嫁してしまう。そのため、政府の失敗は必ず膨張してしまう。膨張する政府を正当化するため、政府はどんどん自由を奪っていく結果となる。

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最低賃金制度による過酷労働の強制

最低賃金制度は「労働者の保護」であると説明されることが少なくない。だが、雇用規制が労働市場を歪めることで仕事の選択肢が減った人々は、より過酷な労働に身を置くことを強制される結果となる。

最低賃金制度を導入すると、低い生産性の仕事のために人を雇用することができなくなる。雇用規制によって、安く雇って楽な仕事をさせるという選択が禁じられるからだ。

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日本の自営業者が減っている

日本の自営業者が減っている。どれくらい減っているのか?

1960年には2000万人が自営業者またはその家族従業者だった。けれども今では1/3以下に減っている。非正規社員が増えているというけれども、代わりに減っているのは正社員だろうか。いや、それよりはるかに大きく減ったのは自営業者数だ。

人を雇うことを難しくなればなるほど、自ら創業しようとするものは減少し、家業を持つものも商売を畳んでいく。

日本でも1970年代以前は、月給取りは稼げないと言われたものである。けれども今では、全く多くの人が賃金労働者を目指す。

賃金労働者として良いポストを得たものは、強い雇用規制の内側で安楽な地位を得る。一方、そこから一旦外れれば仕事を得ることが難しく、きつい条件であっても吞み込まなければならなくなってしまう。

最低賃金制度による過酷労働の強制

雇用規制によって生じる、無駄な学歴競争

http://shibari.wpblog.jp/archives/13762

生活保護と立憲主義

政府の生活保護制度は、多くの支持者と、多くの反対者がいる制度だ。

生活が困難になっている人たちに心を痛める気持ちもよく分かるし、経済的な余裕がない人にとっては無理に支出させられることに抵抗感があるというのもよくわかる。

その折り合いを民主主義で決めましょうというのはそもそも難しい話なのかもしれない。

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好景気なのに倒産する企業

需要が弱いのに原価が上がる、政府は空前の好景気だというが、各地で倒産する事業者が相次ぐ。

政府から補助金を受け取った一部の事業者が給料を増やして人件費を嵩上げしたという話だから当然である。そもそも実需に裏付けられていないのだから、売れないのに原価ばかりが上がってしまうし、残るのは補助金依存の事業者と新たな増税ばかり。

顧客の支払いに裏付けられてるわけでもない、給料が政府の補助金に依存してる会社の人たちは、自民党に投票せざるを得ない。止まったら終わりだからだ。

単に市場競争に負けてダメな会社が退場するならよいが、政府と仲が悪い企業から追い詰められて退場するって話なのである。市場から必要とされないものを作る人ばかりが増え、必要とされるものが足りなくなって値上がりする。そんなアベノミクスって、間抜けじゃないか?

 

天賦人権論の否定、人権を「国家のおめぐみ」にしてしまう与野党

『安倍自民党が天賦人権論を否定して基本的人権を「国家のおめぐみ」に変えようとしている』という話がある。それは事実だと思う。

ところで、天賦人権論が採用できるのは、人権の定義が消極的自由の範囲に限定されている場合だけではなかろうか? さもなくば、国家による他者への強制力の行使なしでは成り立たない。つまり、「国家のおめぐみ」とならざるをえない。

自衛隊の肯定や日米安保の肯定が必然的に9条の解釈改憲や安保強化を導いたように、公営社会福祉の肯定は人権に関してもファシズム的な改憲を導くだろう。政府の強制力による徴税・再分配を前提として人権の概念を拡張してしまえば、天賦人権論は成り立たなくなるからだ。

教育無償化とか子育て支援とか残業規制といった要求を次々と行っている野党は、自民党とともに憲法改正の共同作業に邁進していると言うべきではなかろうか?

ナチスの社会福祉政策

文科省の奴隷としての教員

学校が人材不足だという、十分に人材を雇えない学校なら倒産すればよいと思う。だが倒産しないのである。ちゃんと効率よい運用ができているならともかく、経営に失敗しているくせに納税者負担を増やして延命するなんてやめてほしい。

教員の人たちが、「こんなに非効率なんです」ってちゃんとアピールしているのに、なんで納税者に負担させようなんて話になるのだろうか?経営が不合理なら倒産すべきってみんな言ってたよね。いくらなんでも、まっとうな事業を営んでいる側に負担させるのはおかしくないだろうか?

今や、公立学校や行政サービスなんて中の人から非効率を批判するような声がでている。中の人がもっと効率よい事業を提案できるだけの背景があるのだから、国による独占事業をやめさえすればよいだけである。

現場の人たちはいくらでも勝手に起業して今より稼げるし、利用者は利用者で今より安く高品質を安く手に入れられるだろう。文科省は、公教育に使っていた税金を納税者に返せばよいだけだ。

国に教育の独占を続けさせることで、職業選択の自由を奪って、営業の自由を奪って、教育の自由を奪っている。教育の内容に、政治の思惑が入り込み、拒否することさえできない。幸福追求の自由を奪ってるのである。 日本国憲法26条を根拠にして、いったいいくつの憲法条文を蹴っ飛ばしているのだろうか。何重にも憲法違反しているではないか。

公教育を廃止して誰でも学校を作れるようにしたら、必要な報酬を教員が顧客に求めることも、求める教育や何に負担するかを利用者が選ぶことも、自由にできる。

そうしないのは、教員を文科省の奴隷にし続けるということだし、生徒を政府の奴隷として育てるということに他ならない。